われわれの思考は、アドルノやデリダ、そしてハバーマスのあいだで揺れ動いている。弁証法に反対する人も、賛成の人も、結局は、彼らのつくる三角形のなかで藻掻いているにすぎない。全体化に強く反対したアドルノが、差異化の運動そのも […]
小林多喜二を読んでいると、いかに《文学》が神聖なものだったかを、強く感じさせられる。共産党の活動の奥深くに食い込んで非合法生活をつづけるなかで、それでも彼は最後まで筆を手放さず、自分の目と耳と指とを信じ続けた。だから、自 […]
兵士と戦士とを厳格に区別する必要を最初に説いたのはニーチェである。そしてニーチェは、ひとに兵士になるな、戦士になれ、と言った(ドゥルーズ=ガタリの《戦争機械》の概念は、この区別の延長上にある)。このニーチェの箴言は、いま […]
われわれは、戦前と戦後を見渡すことのできる世代である。戦前の60年と戦後の60年を比較して、そのどちらにも、ある種の共感を覚える。またそこに、思考の絶対的条件とでもいうべき不可避的な病があることも承知している。 ◆ たと […]
たとえば晩年のジャック・デリダがハバーマスと共闘したように、晩年の柄谷行人は丸山真男に共感する。ここに共通したなにかはないか。それも、戦後の病そのものであるような。といっても、それは不可避的な病であり、戦前のひとびとが、 […]
遠隔力(磁力や重力など、離れているもの同士で働く力)を斥け、衝突によって力学を考えようとしたデカルトの議論は、今日ではマイナー科学に属し、万有引力を認めたニュートン以後の世界では、デカルトの衝突論は異端中の異端である。と […]
イスラエル軍は空爆の映像を世界に配信している。とにかくひどいという印象をわたしに抱かせる。この映像のフレームそのものが醜悪であり、撮影する者が代表している人間の醜悪さ、まるで人類の善を気取り、代表するような傲然とした態度 […]
言葉がみちて、やがてあふれて現実を穿つとき、わたしたちは、それを《出来事》と呼ぶことがある。それは真理の名に値する唯一のものであり、そして同時に名状しがたい美しさをもっている。 だが、こうした「思考」を否定する背面世界論 […]
「鏡像」という言葉を聞くと、磁力のことを思い出すのだが、今日ではもっと別様な意味で、ラカン風に使われる。「鏡像段階」である。厳密な自己とは異なる鏡に映った像、すなわち虚構としてのイメージ、それを自分自身であると認識するこ […]
蚊を叩き潰す。幼い頃、ぼくは昆虫その他小動物を愛していたので(いや、生き物全般をあれほどに愛していた時代はなかっただろう)、蚊が自分の腕を枕に食事をしているのをみても、窓の外に追い出すことしかしなかった。だが、そんな余裕 […]
子供のころ、雨が降ると、いつもショパンの『雨だれ』を思い出した。雨の日の気だるい午後、ピアノに頭をあずけながら、雨の音にあわせて鍵盤を叩くショパンを想像した。自分も、雨が降ると、ピアノの鍵盤にゆっくりと指を乗せ、同じ音を […]
昔、ある人がこう言っていた。「わたしたちが見ている世界は、いつも世界の半分だ。」それは、正しいと思う。わたしが見ている世界も、きっと、世界の半分だからだ。世界には、つねに、もうひとつの世界、すなわち、反世界がある。わたし […]
長年、ほとんどまともにひとから認められたことのなかったセザンヌは、南仏エクスに隠棲し、孤独な生活を営んでいた。そんな彼も、五十五歳になった。ある日、いくらか気分がよかったのか、不意にかつて親しかったモネの家を訪れた。そこ […]
この三人について、ずいぶん、言葉を費やしたと思う。とくに、デリダについては、ここでは比較的たくさん語ったし、本当のところをいえば、もうあまり文句はいいたくない。きっと彼の人柄は、素晴らしいものだと思うから。それに、わたし […]
言葉は、リプレゼンテーションではない。その証拠に、言葉には、軽さがあり、そして重みがある。しかし、今日、ひとびとが語る言葉のこの軽さは、本当の意味での軽さでは、けっしてない。たんに、言葉には重みがあるということを忘れてい […]
小林秀雄について、なにか書いておこう。彼は、一九八三年まで生きた。その意味では、彼は孤独だっただろう。自分より若かった高見順も早世し、川端康成も自殺し、そして志賀直哉も死に、そのなかで、戦前のひとたちがもっていた、ある種 […]
丸山真男はこういっている。 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっ […]
言語は、主体の意志を伝えるための道具である。このとき、ある語と結びついている特定の意味が参照されなければ、意志が伝達されるということはない、と考えられる。したがって、《意味》が共有されていなければならない。《意味》という […]
射殺された俳優、そして俳優を射殺してしまった観客について考えてみよう。射殺された俳優は、いわゆる悪役であり、主人公を騙してその妻を殺害させ、殺害した本人をも自殺に追い込んだ非道い人物だ。“イメージ”という名の役を演じた彼 […]
「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか!」と言ったかと思うと、それで […]
どうも最近、メモ書きが多くなって申し訳ない。メモと書かれているのは、基本的に自分用に書いているのだが、にもかかわらず、こうした場所に書くのは、自分に緊張感を与えるためであり、また同じことだが、メモにもある程度責任をもつた […]
《無》とは、多様性のことだ、といえば、読者は混乱するだろうか。あるいは、《無》が「存在」を可能にするのだ、といっても、読者は混乱するだろうか。とはいえ、「存在」は、多様性を抹消する《無》のおかげで可能になる、というのは、 […]
最近、ジャック・デリダの文句ばかり言っている気がするが、どう読んでも納得がいかないのだから仕方がない。とはいえ、自戒しておくが、勘違いしてはいけない。彼の行なう、微に入り細を穿つテクスト読解は、それはすばらしいものだ。わ […]
憲法というテクストがある。これはわたしたちの外部にあり、国民投票という改変を経なければ、どうにもならない《もの》である。カント風にいうと、かの憲法は、一種の《物自体》である。もちろん、改変できる以上、「どうにもならない」 […]
川端康成は、東京裁判を傍聴し、次のような手記を残している。 戦争の起因は日本の歴史にも日本の地理にもあつて、今日の日本人のせゐばかりではない。勿論東京裁判のわづか二十五人のなし得たことではない。これらの人達は政治と戦争と […]
昨日あの手の話をしたのは、「従軍慰安婦」のことが頭にあったからだが、途中で脱線した。もともと、直接名指しでそれについて述べるつもりはなかった。が、かといって、相異なる二つの理性とその葛藤について書くつもりもなかった。学的 […]
いまの日本は、世界的な公準に照らしてみれば、どう考えても極右政権なのだが、ネオナチの《アウシュヴィッツは存在しない》というテーゼ同様、そうした言質を繰り返すのが彼らの特徴となっている。彼らには、独特の論理学があって、こう […]
カントは、「他者を手段としてのみならず、つねに同時に目的としても扱え」と言っている(1)。この言葉は理性的な意味ではおおむね正しいが、逆にこのようにも考えられねばならない。《他者は手段としてのみならず、つねに同時に目的と […]
ニーチェは、どこかで、ギリシア人が「希望」にほとんど価値を与えていなかったことに注意を促している。そのことは、近代人には不可解なパンドラの神話にも明らかである。この神話のプロット――といっても、諸説あるストーリーを、いく […]
今日、世界で見かけるきわめて多くの日本人女性が、ルイ・ヴィトンの鞄を持ち歩いている。といっても、日本人女性が、この鞄を作った一九世紀の家出少年の熱烈なファンというわけでもなければ、あるいは、何人かの外国人が誤解しているよ […]