政治と歴史――古い理性の苦言

criticism
2007.03.11

昨日あの手の話をしたのは、「従軍慰安婦」のことが頭にあったからだが、途中で脱線した。もともと、直接名指しでそれについて述べるつもりはなかった。が、かといって、相異なる二つの理性とその葛藤について書くつもりもなかった。学的な区分と理性の関係について、いくらか簡略化しつつ書いているうちに、そうなった――のだが、だいたいいつもそんな感じなので気にしない。いずれにせよ、これから述べることは、昨日述べた古い《理性》がわたしに訴えていることである。齢二千歳ほどの老人の小言だと思って、聞いてくれれば幸いである。

さて、昨日も言ったとおり、歴史学は、けっして、あったのか/なかったのか、いたのか/いなかったのか、を問うことのできる学問ではない。歴史は実験不能の社会科学の領域の学問であり、とくに、《二者択一》に行き着く問いに対しては、永久に答えることができない。しかし、《どのようなものだったか》ということなら、ある程度答えることができる。なぜなら、こうした価値にまつわる問いは、過去の出来事そのものではなく、過去の出来事について、わたしたち現在がどう判断するのか、という、いわば過去と現在の関係性についての問いだからである。その意味では、ややこしいかもしれないが、歴史学においては、じつはどのような対象も、「ない」という表現がとられることがあるとしても、基本的には「ある」という前提で議論が進められる。

仮に織田信長は存在しなかった、という表現がとられたとしても、織田信長の事績を実現させた何者かの存在までが否定されることはない。またたとえば、有名なテーゼに、《中世は暗黒時代ではなかった》というものがある。が、別にこれは「暗黒」性の有無を問おうとしているのではない。むしろ、わたしたちのいる現在と、中世と呼ばれる時代の関係性が変わった、という意味である。

もともと、歴史学は、なにひとつ実証したことはない。考えてみればわかるとおり、歴史学の研究が進んでいる領域は、じつはその対象について規定的になっていくのではない。読者を驚かせることになるかもしれないが、研究の進んでいる領域とは、逆にいえば、諸説入り乱れている多様な領域なのであって、結果的に、こうした領域は、かえって未規定なものになる。《歴史学の研究が進めば進むほど、歴史は未規定なものになる》のだ。他方で、歴史学の研究が進んでいない領域は、反対により規定的な領域になってくる。たとえば、織田信長が本当に存在したかどうか、研究した歴史学者はいない。したがって、織田信長が存在した、というテーゼについては、今日、きわめて規定的な状態にある。

どれほど大家が実証的な結論を出そうと、それについて反論が出てくるのが、歴史学の大いなる特徴である。テクスト(史料)は、つねにオープンなのだ。テクストは万人に対して開かれているのであり、どのような読みも、自由である。そのことは、歴史学の本質に含まれていることなのであって、否定することはできない。それは、歴史学が、過去の出来事そのものではなく、過去の出来事と現在の関係性を問うことにある点から、来ている。読み手が変われば、当然、解釈は変わるのだ。

従軍慰安婦であればことさら問題になるのだが、この手の「なかった」式のテーゼを提示してくる学者はたくさんいるし、別にそのことは不当なことではない。存在しない、ということさえも、それもまた多様な《あり方》のひとつであると、考えることは不可能ではないからである。もともと、マックス・ウェーバー的な文脈に従うかぎり、歴史学は社会科学である以上、個人の内面まで問うことはあまりしない。また、個別的な事例に関わり過ぎない方がよいという原則もある。だが、個別的なものが、全体的なものをくつがえす可能性についても、否定すべきではないのも確かである。歴史学の領域では、しょっちゅう、そうした個別事例で全体的な議論を批判してしまうケースがあるが、こうしたことも、受け容れられているのが現状であるし、完全に間違いというわけでもない。全体ということが、そもそも曖昧だからである。

本質的に多様で、結果的に未規定なものであらざるをえない《歴史》を規定的なものにしてきたのは、いつも《政治》である。本来、富者にも貧者にも、平等に死を与える歴史のうねりと違い、《政治》は、ひとに勝利と敗北を与える。《歴史》が規定的であるとすれば、それは、それがいわゆる勝者の歴史だからであり、勝者を生み出した時の政治が、歴史を規定的なものにしたのである。きわめて逆説的な言い方になるので、左翼には申し訳ないが、共産主義という理想を描くことのできた戦後という時代が、従軍慰安婦の歴史を規定的なものにし、多様な解釈の可能性を奪っていただけである。べつに、当時の歴史学者が純粋に歴史学的な努力していたから、従軍慰安婦の歴史的解釈が定まっていたわけではないのである。

その意味では、わたしは歴史学者が、従軍慰安婦は「強制」ではなかった、という解釈を行なう権利を、根本的に否定しようとは思わない。そもそも、この手の議論は、問題となっている語(ここでは「強制」)の定義がはっきりしていないことが一番問題である。だが、それを差し置いても、強制性の有無についての問いではないかぎり、許容範囲である。ここでは、《わたしの考えているような強制ではなかった》という意味に捉えるのがもっとも生産的である。おそらく、強制では「なかった」という議論をしたがるひとは、「強制」という語をかぎりなく限定して使っているのだろう。「強制」という語の捉え方が違うのである。そもそも、自発的か/強制か、という個々人の内面にまつわる問題を判断する権利は、歴史学にはきわめて少ないし、また、実証可能性はさらに低い。だが、いずれにせよ、存在の有無についての言及ではないかぎり、あくまで、歴史は、現在の歴史家と、過去の出来事とのあいだの関係性についての問いであることを止めないし、また多様であるべきだろう。

 ならば、今日のこの問題の特徴はどこにあるか。それは、もっぱら、《政治》が《歴史》の解釈に介入している――文字通り口出ししている点にある。わたしたちは、ある程度認めざるをえないのだが、戦後の政治的な状況が、先のアジア・太平洋戦争の解釈についての自由を奪っていたという観点を、受け容れなければならない。もちろん、戦後数十年は、当事者がおり、そのことによって、じつは依然として対象そのものが政治的なものであった。この対象は依然として裁判の対象であり、「決断」の領域――政治の領域だったのだ。つまり、したがって、それは《政治》の当然の権利でもある。

 だが、時代が進むにつれ、それは歴史の対象となってきている。ここに、政治的な決定権が及ぶことには、断固として反対せねばならない。権力を有した政治家が政治家として公式に研究会を行なうなど――それが政治に直接還元される回路をもっているかぎり、もってのほかの、越権行為なのである。歴史は、原則的に、あくまで万人に開かれた、自由な解釈の場だからだ。《必ずしも証明されているわけではない》というテーゼを政治家が使えばどうなるか――それは、存在の有無についてのテーゼに変化し、結果的に歴史の解釈の多様性を抹消するのである。同じ発言内容が、歴史家と政治家とで、別の意味をもつのだということを、とりわけ政治家は、よく理解しておく必要がある。その点、ここ最近の政治家は、あまりにもナイーヴであり、あまりにも無粋である。

今後、かの歴史の解釈は多様を窮めるだろう。議論が喧しくなればなるほど、それは避けられないし、それが歴史の領域であるかぎりは、当然である。わたしたちは、これを歴史学のルールの範囲内で批判することはできても、完全に否定することはできないし、結果的に、規定的なものを未規定なものにしてしまうことは、どうしても避けることができない(それがいやなら、議論をしない、というのが一番の方策である)。よって、《必ずしも証明されているわけではない》という見解は、歴史の範囲では、多様性を支持しているかぎり、正当なものだ。ここには、明白に、歴史学の限界がある(1)。歴史学にもとづく歴史の見解が、期せずして政治的な意味をもつとしても、歴史学の範囲内では、そのことを止めさせることはできない。歴史家がそうした考察を抑え込もうとすれば、じつはそのことで墓穴を掘ることになるのは、たいてい抑え込もうとした側である(2)

ただし、この流れを押し止める手がないわけではない。わたしたちは歴史家である以上に、日々政治に作用し、政治による作用を受ける人間だからである。政治的な意味での批判は、いつでも可能である。とくに、ある種の解釈を政府が公式見解として取り上げる場合には、批判の手を緩める必要はない。本質的に国家が自身に都合の悪いものを排除する方向にはたらく以上、市民である自身の倫理観に照らして、そうした見解には断固として反対してよい。それは、歴史ではなく、政治の領域の問題だからである。政治的にどのような解釈がもっとも適切か、という点において、政府を批判することは、市民としての当然の権利である。北朝鮮の核実験を契機とした制裁でアメリカ等と足並みをそろえなければならないときに、外務大臣が日本も核武装したい、などと言い出せばどのようなことになるのか、というのと同じ意味で、六ヶ国協議の最中、拉致問題を解決しようとしているときに、従軍慰安婦の問題に口を出せば、どのような結果になるのか、あるいは、今後の周辺諸国との関係を考えた時、一国の首相が、日本の学会では到底認められていない、個人的な歴史解釈を披瀝すればどのような弊害があるのか、という観点で、批判してよいのである。

【註】

  • (1) わたしが限界を規定しているのは、主として実証主義を主流とする歴史学である。その意味では、歴史を別の方向から論じる可能性をすべて否定しているわけではない。哲学と文献学、政治と歴史の狭間で思考しようとした思想家を、わたしたちは知っている。アルシーヴ(古文書)に特権的な可能性を認め、《アルケオロジー(考古学)》を提唱した、ミシェル・フーコーである。それは、歴史と哲学を弁証法のうちに溶解させてしまったヘーゲルの《思想史》と似てはいるが、異なるものである。
  • (2) とはいえ、従軍慰安婦の歴史を抹消しようとする保守的な言説を、過度に恐れる必要もない。保守的な歴史学者が何を言おうと、《政治》の介入がないかぎり、《なかったこと》にはけっしてできないからである。歴史学者が存在の有無について云々することは、《政治》への越権であるし、そもそも不可能である。歴史家は、自身の行なっている学が、その程度のものだということは、自覚しておく必要がある。

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