いてもたってもいられなくなってデモに参加した若者たちの純粋な精神とひきかえ、経済効果のために若者を戦争に参加させようとする大人たちの精神の貧困は見るに堪えない。だが、日本のインテリにはもうすこし責任があると、ぼくは思う。 […]
歴史学(歴史主義)は、哲学の普遍主義に対立するものとして生まれた。前近代はといえば、とかくイエスが、孔子が、仏陀が、とやっていたのだ。彼らの言葉は恒久的に普遍であり、ぼくらの課題はといえば、その「教え」にいかに近づくか、 […]
七月、憲法が変わった。否、ほとんどというべきか、といっても、あとは最後の一撃、しかもわれわれではどうにもできない一撃を加えるだけである。ひとはおそらく、まだ古い夢をみつづけているだろう。夢のなかでぼんやりしている者が大勢 […]
若者に期待する努力とは、美しいものを見聞きすることである。美は欲望と結びついている。欲望にしたがっていればいいのだから、一見、簡単なようで、存外むずかしい。ひとが醜いと思うものにも、美は隠れている。逆に、一見美しくても、 […]
神や王、将軍にかえて、ひとが《法》を玉座に据えたときに、近代がはじまった。たとえ王であろうと、またその源泉が古来の王統にあるのか、それとも人間本性にあるのかは別としても、とにかく《法》にしたがう。それが近代のひとつの意味 […]
フェルナン・ブローデルは、技術の歴史ほど困難なものはない、と、どこかで言っていた。近代史をやる以上、技術の歴史の研究を一度はやるべきだろうと思ったのは、じつはずいぶん昔のことだが、いざそれに取り組んで、ブローデルの言葉を […]
研究者や芸術家にとって、作者の署名には、どのような意味があるのだろうか。現代では著作権に、すなわちお金に結びついている。だからいろいろなものが、見えにくくなっている。たとえばイリアスとオデュッセイアという作品は、《ホメロ […]
日本史を必修にするという話が出ているそうだ。それに関連するかはわからないが、かつてこんな議論があった。日米開戦直前、いわゆる京都学派による、悪名高い「世界史的立場と日本」である。『中央公論』に掲載された座談会の一部をこれ […]
古来、ひとは幽霊や妖精なしにはなかなか生きていけないものなのだが、人文学者のアドヴァンテージは、はじめから、幽霊や妖精を扱っていると自覚していることである。つまり、彼は幽霊や妖精の実在を口にしてそれを学問の対象にできるほ […]
ファシズムについて。現在の政治家にそうした状況を作り出し、かつコントロールできるような人物がいるとは思わない。ただし、だからといって、ファシズムが発生しない、ということではない。特定の政治家に対して、そうした人類の債務を […]
たとえばぼくは、秘密の概念を愛している。秘密は、永遠に秘密のままでは、存在していないのと同じだと、ひとはいう。秘密は暴かれ、打ち明けられねば秘密はいえず、そしてそれによって秘密は秘密であることをやめるのだと。しかしそれは […]
法の世界について、自分はとかく縁遠いが、《法外》の世界を「無法者」の世界や、暴力的権力の蠢く世界としてしか想像できなくなっていく近代の危険性ということを、自分は強く感じている。「言論の自由」にとって、秘密保護法案より恐ろ […]
死は、ほんとうに取り返しのつかない、痛ましいもののひとつであるが、それは、時間概念の不可逆の本質から来ている。時間がもたらす絶滅は恐るべきものだが、しかし、その一方で、絶滅には抜け道がある。つまり、ふつうは、生物は絶滅す […]
多くの学者たちの努力にもかかわらず、学問の世界はどこもかしこも衰弱するばかりなのだが、この速度に追いついて、また上昇するのも、考えるだにたいへんなことである。若者の政治に対する無関心は小石を投げてできる波紋よりもはやく広 […]
いまさら批判めいたことを言いたいわけではないが、あまり端的に自分と立場が違っているのが面白かった。柄谷行人の『差異としての場所』という本に収録されている、「テクノロジー」なるエッセイについてである。はじめ読んだのは前世紀 […]
この社会で、エゴイストであることの困難。エゴイストをみれば、世間一般のひとびとは、なにか悍ましいものを見たような気分になり、忌み嫌って人でなしのように感じたりする。実際、エゴイストは、この社会、とりわけ日本社会において、 […]
わたしは歴史学者だから、憲法についても、法学的に読むことはしない。むしろこれらの条文を、言葉として、そしてその言葉が徴づけている出来事を読みこもうとする。そして、まだ息をしているこの言葉が早急に葬り去られようとしているの […]
体罰の問題は深いところで言語の問題とつながっている。わたしはさいわいにして、いまのところ経験がないが、おそらく教師の暴力が一番発生しやすいのは、子供がまったく「言うことをきかない」場合であろうと思う。そのときに、たとえば […]
知の凋落は、表象と実在の不一致よって表される。政治家はその力の巨大さにふさわしくない醜さを露呈し、教師は学生と同じようにしかみえず、われわれの知もまた民衆の砂遊びのなかに埋もれる。不一致を敏感に感じているのは為政者である […]
さて、仕事が終わったら、大切な仕事が待っている。どれも不真面目な自分には分不相応な仕事だ。教室で若者たちと向き合い、史料を介して過去の偉大に触れ、そして未来に向けて論文を書く。非常勤ゆえ、いつまでこの仕事が続けられるかは […]
京都には南京攻略に参戦した第十六師団があった。師団の兵士から郷里に宛てた手紙をみたことがある。そこには、《最近は民家に隠れている中国人を殺すのが慰め(大意)》と書かれていた。 しかし歴史学者ならば、この手紙に反対すること […]
ある作家がこんなことをいっていたそうだ。「言葉というものには、それに仕えてきた者をいつ見捨てるかわからないところがある」……。しかし、もしそのようなことがあったら、この作家は作家生命を絶たれているはずである。これを批評家 […]
多くの若者たちは、歴史学は記憶から始まると誤解している。だが本当は、歴史は忘却から始まるのだ。誰かの記憶が失われてしまったときが、歴史の出発点なのである。記憶痕跡を持続させようとする試み自体は、人間的なものであって否定で […]
犬のディオゲネスが人間を探して昼間の市場でランプを灯していたのは、アテナイがアレクサンドロスのマケドニアに従属する頃の話。ニーチェはこのエピソードから、超人の概念に行き当たる。超人は、ヒューマニズムを否定しているわけでは […]
超越論哲学——キリスト教社会における、神的超越から人間的超越「論」への移行。西欧社会がもちえたカント哲学の価値を、東洋のわれわれは想像するほかない。また一方で思うことは、カント哲学は日本にあまりのもはまりすぎるのではない […]
かつてゾラが、コローの描くニンフが労働者であれば、もっと高い評価を与えたと、言ったことがあった。一理はある。だが、わたしは労働者とは、ニンフのようなものなのだと感じている。数えることを許さない、特別な自然。数を数える人間 […]
デリダやカント主義者による懐疑哲学は、実証主義のドグマ、マルクス主義や民族主義史観といったさまざまな歴史観のドグマから、若者たちを抜け出させてくれた。そこに他者がいる、という指摘はドグマに対するこの上ない痛棒だった。さて […]
文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。 こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれ […]
わたしは、積み重ねてきた善行の見返りを生きているうちに貰いたい、と考えている人間である。だが同時に、わたしに振舞われた同時代の人間からの不当に対するお返しは、次の世代と次の次の世代の若者が支払ってくれるといったゲーテの考 […]
ジャーナリズムが《文学》の堕落した形態のひとつなのはたしかである。《文学》は虚構をあつかうのではない。むしろ嘘を吐いているときでさえ、真実を語ろうとすることが《文学》である。しかし、真実を語ろうとするあまり、実際に起こっ […]