虚偽と虚偽の暴露

criticism
2012.08.21

知の凋落は、表象と実在の不一致よって表される。政治家はその力の巨大さにふさわしくない醜さを露呈し、教師は学生と同じようにしかみえず、われわれの知もまた民衆の砂遊びのなかに埋もれる。不一致を敏感に感じているのは為政者である。だから彼らは躍起になって、おのれの力を極限まで奮う。

知が凋落すれば、表象と実在とは乖離していく。あの学者の言葉が現実と対応していないかもしれないという疑念は、権力を振るう者の正当性を喪失させる。旧世紀の批評家はその乖離を「差異」や「他者」という言葉ですでに指摘していたが、その指摘が知の凋落を押しとどめることにはならない。

自己同一性の虚構を信じて無意識に差異を散乱する「国民」と、自己同一性の虚偽を暴き、無意識の差異を見いだすフロイト的知識人の批評/診断とは、一見異なるようで、現実にはなにも変化がない。仮にもその指摘によって、なにかことが起こるとしたら、それは知識人の自意識のなかだけである。

表象と実在の乖離を指摘するだけで終わるなら、それはますます、乖離を穴埋めするための為政者の暴力を助長する。たとえばこうだ。民衆が、お前は権力者にふさわしくないと糾弾すれば、権力者は、ますます権力を揮い、おのれの権力を見せつけようとする、こうした悪循環を生み出してしまう。

時代はますます悪くなるだろう。若者には辛い時代だ。しかし、この悪化のなかで民衆を襲う不幸と同じ数だけ、ささやかな幸福が生まれて消えていることもたしかである。この幸福を寿ぐ一方で、知識人は、この小さな幸福が必要な絶望を遠ざけてしまうのを恐れるものなのである。

HAVE YOUR SAY

_