テクノロジーと魔術

criticism
2013.06.26

いまさら批判めいたことを言いたいわけではないが、あまり端的に自分と立場が違っているのが面白かった。柄谷行人の『差異としての場所』という本に収録されている、「テクノロジー」なるエッセイについてである。はじめ読んだのは前世紀末だが忘れていた。

彼はいう。「科学をもち上げテクノロジーをさげすむ思考が支配的な文脈では、私はいつもテクノロジーに味方してきた。われわれの生に影響を与えるのは、一つの新しい科学的原理ではなく、どこかいかがわしい多様なテクノロジーだからである」。

またこうも言う。「たとえば、坂口安吾は、戦争中に、日本精神や日本文化などはどうでもよい、戦闘機を作れ、と書いた。もちろん、これは技術の重視というようなこととは無関係であって、生きるために『もっと堕ちよ』という、戦後の『堕落論』に直接つながるような価値転倒を意味している」。

しかし、かかる安吾の精神は消されてしまったらしい。「実際には、『戦後的理念』のなかで、こういう逆説的な精神はほとんど消されてしまった」……。さてそれはどうか。日本精神などどうでもよい、原発を作れと、あるいは、日本の原風景などどうでもよい、十メートルの堤防を作れと、置き換えてみればどうか。

科学がもたらす知=イデオロギーに対して、技術はつねに《反イデオロギー》のようなものを供給する。技術は、知(言葉・観念)とちがって、つねに現実に働きかけると思われているからである。だから戦後の知識人が技術を礼賛したことは理解できることである。

しかし、技術は、現実に対して、どのように働きかけるのかを問わなければ、二者択一の単純な議論に終わってしまう。つまり技術それ自体を問題化することがなければ、たんに知を否定するだけに終わってしまう。現実なるものによる知の脱構築は可能かもしれないが、それにかえて、柄谷には手の届かないテクノロジー(たとえば戦闘機)以外のなにかを提示する気はないらしい。

長々と論じるつもりはない。といって、一言で技術がいかなるものか指摘するのは不可能だろう。だがあえて言うとしたら、技術には、均質化の傾向がつきまとう。つまり技術には、《一般性》という独特の概念を形成する力がある。たとえば音楽にはたしたシーケンサーの意義について考えてみればいい。

世界史における弓矢の普及は驚くべきものだが、この拡散力は知(イデオロギー)の普及よりもはるかに強力である。日本の文明にはたした役割を考えるとき、西欧の科学よりも黒船や鉄道を可能にする蒸気機関の方がはるかにインパクトがあったことも付け加えておいてよいだろう。

合理性において厳格な基準を自らに課している科学と異なり、技術には、世界の方を均質化し、結果として自然のほうを技術的合理性=一般性なるものに作り替えてしまう、独特の力がある。たとえば戦争において、ルールに合わせて武器が作られるのではなく、武器の方がルールを作り替えるのである。

技術には、こうした独特の拡散力があり、そちらの方が合理性なるものを作り出している。原子力技術の拡散をかろうじて食い止めているのは、政治的なイデオロギーの方(たとえば冷戦期のイデオロギー)であって、イデオロギーがなくなれば無限定に拡散していくことは明らかである。つまり技術には、反イデオロギーのイデオロギーがある。

今日、世界を覆っているのは情報技術である。情報技術は、ひとびとの出会いを、コミュニケーションに変える。たとえばマスメディアは、なにか知りたいことがあって庶民にマイクを向けるのではない。あらかじめ決められた答えを得るために、マイクを向ける。

こうしてひとは、催眠術にでもかかったように、同じ答えを自ら話すようになる。情報技術の前で、均質化した人間となる。一般性という独自の平面が作り上げられ、差異はそこからの逸脱としてしか捉えられなくなる。もちろん、社会統計学的平均における、排除すべき例外でしかない。

科学的合理性は、じつはこうした技術的合理性にたえず敗北してきたのである。理解できないことに対して沈黙を選ぶことも科学だが、逆に技術の場合は、失敗であろうと現実に発揮することでしか技術たりえない。そのことが、現実における技術の逆説的な強みになっているのである。

むろん、二十年前のエッセイをほじくりかえされる柄谷は困った顔をするだろうが、彼が主導したデモをみていると、テクノロジーに対する不用意さはこのときから変わらないと思える。彼は、デモを報道しようとしないマスメディアに、報道してくれ、というしかなかった。

今日のように、科学があまりに技術に接近し、卑屈になっている現状では、むしろ《真の科学》を待望してしまう。いまや社会科学も自然科学も、テクノロジー=実験装置が生み出す結果を鸚鵡返しにしているだけになりつつある。人文学も同様である。どうやら、大方の歴史学者にとって、史料に書かれていることが事実なのだ。

ニーチェがこう言っていたことを思い出す。「私たちの世紀を特徴づけるのは、科学の勝利ではなく、科学に対する科学的方法の勝利である」(『力への意志』)。科学の勝利だと思い込んでいた一九世紀の世界にあって、ニーチェがいかに孤独だったか、これでわかろうというものである。

手よりも頭を重視するのが戦前のイデオロギーだとすれば、頭よりも手を重視する、というのが、戦後の反=イデオロギーである、というべきか。しかし、頭だけの人間もいなければ、手だけの人間もいない。頭と手があってはじめて人間であるという当たり前の場所から、出発することはできなかったのか。

法を可能にする源泉はなにかと問われれば、ふつうは権威であるか、真実であるかのいずれかである。神仏や王のような人格化された優れた知性が権威をなし、法を実現するのか、さもなければ、非人格である真実そのものが、法を実現する。近代において、前者は理性法と呼ばれ、後者は自然法と呼ばれる。

ホッブズやシュミットは、法の源泉に権威を、したがって神学の継続をみてとっていた。法が真実にもとづくという場合、法学的には実証主義的な事実の集積に堕しがちで、結果、現実に対する規範的な働きかけが困難になる。法が規範として機能するのは、事実によってというよりは、権威によってである。

しかし、ルネサンス期に、こんな魔術師がいたことを、われわれは知っている。トンマーゾ・カンパネッラである。彼はこう言っていた。

「人間の中で最も偉大な魔術的行為は人間に法律を与えることである。牡羊座の三角形の下には君主国と正当な法と預言者、それにヨーロッパ人がいる。牡牛座の下には共和国と日によって頻繁に変化する多種多様な法がある。双子座の下には聖職者や祭式の法、迷信で部分的にひどく穢れた法、商売の法、機械術の法がある。」(『事物の感覚と魔術について』)

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