作者について

criticism
2014.04.14

研究者や芸術家にとって、作者の署名には、どのような意味があるのだろうか。現代では著作権に、すなわちお金に結びついている。だからいろいろなものが、見えにくくなっている。たとえばイリアスとオデュッセイアという作品は、《ホメロス》の名の下に文学史に燦然と輝いている。

かつて、作者の死、という言葉がさかんに語られたことがあった。そこにはさまざまな意味合いがこめられているが、作品こそすべてであるということと同時に、行為に対するある独立した単一の主体を否定するポストモダニズムの影響も大きかった。またポストモダニズムの登場にも、それなりの背景がある。

とはいえ、ポストモダニズムの代表格とみなされるフーコーはといえば、作者の死、とはけっしていわなかった。ただ、「作者の機能」とだけいった。簡単にいえば、作者とは、その名のもとに作品を囲い込む、法的・制度的なシステムである、と。だからなにをもって作者とみなすかは、社会が決定する、と。

しかし、これはフーコーの分析の一部である。もっと別種の作者がありうる。後代にさまざまな作品を可能にするような、「始原」のことである。たとえばマルクスの書物は、膨大なマルクス主義の書物を生んだ。つまり社会そのものを可能にする特別な作品がある。このような作品は、作者以上に作者である。

社会のなかで決定され、言説の囲い込みの役割をはたす作者と異なり、この作者は、むしろ社会の言説がもっているベクトルをまったく別の方向に変えてしまう。たとえばセザンヌの絵は、その後の絵画のありようを一変させてしまった。「セザンヌ」の名は、この変化のちょうど起点に位置する符牒となる。

ホメロスが歴史的に存在しているかどうかは知らない。それよりも大切なことは、イリアスという作品を通して、世界が一変してしまったことである。神々の世界が、英雄たちの世界へと決定的に変化したのだ。そちらのほうがはるかに大切なことであり、この変化のことを、いわばホメロス、と呼ぶのである。

われわれ研究者や芸術家が目指しているのは、おのれの生み出した作品が、この変化の起点になることである。社会的欲望を満足させるというより、ほんの少しでいい、おのれの作品で社会を一変させることである。そのとき、当然、社会からむき出しになった「作者」は、ひとつの責任主体の顔をして現れる。

昨今の学界における業績主義にはほとほと困っているが、それは研究者の名の安売り以外のなにものでもないからである。ほんとうに満足いく作品にだけ、おのれの名を署名したい。もしほんとうに社会の変化を導こうというなら、その責任のもてる作品にだけ、自分の名を付与したいと思うのである。

たとえば自分の作品で他人が傷つくとしたら? 精神的・物理的にそのリスクがあるとき、どうして作者はいない、などということができようか。われわれ学者は、一般人と異なり、他人を評価する以上に批判する。そのとき名前を隠していることこそ卑怯なことはない。ただその上で、歴史に思うことがある。

時の流れが、作品の作者の名を忘れさせてしまうことがある。夢殿の救世観音がそうだ。作品だけが屹立し、ただ無名の作者がいる。思えばホメロスでさえ、もはや伝説的な人物である。しかし作品のすばらしさはいうまでもない。ひとはけっきょくは、ここを目指すのである。無名氏の作品を。

とはいえ生きているあいだは、われわれ研究者や芸術家は、とにかくなんらかの名前のもとに行動する。今後生み出していく自分の作品が決定付けるかもしれない変化の責任を、所属する組織ではなく、そのむき出しの、たったひとつの名にだけ背負わせることになる。それが作者という言葉の意味である。

その意味では、自身の論文の責任を、作者の所属する組織や学会の側に見出そうとする社会のあり方は、まったく望ましいものではない。それはますます、組織の保守性を高め、研究者自身の自由な発言を困難にする。研究にはさまざまなリスクがありうるが、その責任を作者が負うのは、当然のことである。

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