独断主値と懐疑主義とを超えて

criticism
2011.10.13

デリダやカント主義者による懐疑哲学は、実証主義のドグマ、マルクス主義や民族主義史観といったさまざまな歴史観のドグマから、若者たちを抜け出させてくれた。そこに他者がいる、という指摘はドグマに対するこの上ない痛棒だった。さて、われわれの仕事は、この後どうするか、ということである。

政治の決断主義や宗教的ドグマへの回帰に対して、懐疑主義のもたらす批判は、いまだこのうえなく有効である。しかしかかる弁証法的な闘争状態は、民衆のなかに潜在的に育まれている、ドグマへの依存可能性をますます大きなものにしている。デモはもちろん必要な自己表現のひとつである。しかし……。

懐疑主義哲学の隆盛は、特定の歴史観を完全に破壊した。歴史観など歴史家の物語にすぎぬと喝破した言語論的転回以後の歴史学において、これに批判的な実証主義者も、同様に歴史観には否定的なのである。いわば彼が無意識に受け容れている常識以外、歴史を叙述するよすががあるわけではない。

過去を見る目を養うことなしに、未来を見渡すことのできる人間はいない。しかしそれは、過去と現在とを結ぶ直線が指し示す方向を見ることである。《歴史の終焉》後唯一、たとえ復古的なものとはいえ歴史観を示した者たちに若者が惹かれたことは、ゆえない話とはいえない。

政治家の提示する権力づくのドグマと、批評家たちのおなじみの懐疑的批判の応酬が社会をよりよいものにするという、戦後以来のお目出度い弁証法が今後も通用すると考えてよいのだろうか。われわれ若者の課題は、そうした戦後以来の社会状況を継続させていくことになるのだろうか。

歴史観は失われて久しく、未来を見るための道具はない。歴史の探究は純粋に過去を明らかにすることだけに向けられた一方通行路であり、それ以上の欲望は禁じられている。多分われわれは、時間についてなにか考え違いをしているのだが、どういう考え違いなのか、指摘してくれるひとはいない。

ドグマか懐疑か、という不毛な二者択一のなかのどちらかをわれわれは選ばねばならぬのだろうか。宗教的ドグマとは無縁のはずの科学的な決定にまで、いまや権力が浸透していることが誰の目にも明らかになった今、ひとは信じられるものはなにかと、ドグマへの潜在的欲求を募らせるばかりである。

ただ懐疑の声を振りまくのでもなく、ひとを否応なしに巻き込む大文字の歴史観への回帰でもなく、おのれ独自のスタイルの追究をと願って、ひたすら文学の必要を説いて廻る。それは本当に微力ではあるが、これこそ、新しい大地の形成とそこからの未来の芽吹きのために、途絶えさせてはならぬものである。

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