歴史家であるハンナ・アーレントの概念に、「忘却の穴」がある。ユダヤ人を焼き尽くしただけでなく、焼け残った髪や骨までも消し去ろうとしたナチスの行為は、民族そのものの存在の記憶――痕跡――すら抹消しようとしたのであり、これを […]
今日、わたしたちの眼前に広がっているのは、極端な世界である。インターネット上に流れた、処刑される人質の映像は、現実であると同時に、非現実である。肌も露わなアメリカ女性と、ショールをまとったアラブ女性。あるいは、女性はもは […]
和音を弾くのが馬鹿馬鹿しくなったのは、いつごろだろうか。たぶん、21世紀になる直前だったと思う。ようするに、その時期が、わたしの調性崩壊の始まりだった。 今から百年ほど前に、和声法よりも対位法の方が強力であるといった音楽 […]
他人について知りたい、という欲望は、ごく自然なものだろう。ひとが、他人の何に興味を持つかはさまざまであろうが、やはり、気になるのがプロフィールではないか。そこには、名前や出身、血縁や地縁、生没年のみならず、場合によっては […]
たとえば、とあるデリディアンはこう言っている。 テクストはつねに完結せず、開かれている。これはクリステヴァやエーコを参照するまでもなくありふれた認識だが、デリダが優れているのは、[…]彼がそれをネットワークの不完全性の問 […]
網羅主義は、古典主義時代の博物学から一九世紀後半の万国博覧会を頂点とする化石的思潮というべきである(もっと古くはアレクサンダーの帝国やローマ帝国の時代、すなわち帝国の時代に主潮となったものでもある)。それが今日、とくに息 […]
なにか書かねばならない。 さて、世の中、腐っている。世の中が腐っている以上、当然、自分も腐っているのだが、とにかく自分も含めて世の中は腐っているし、自分にも世の中にも腹が立って仕様がない。子供だと思われてもいいから、一度 […]
ところで、夏目漱石がなにより戦い、敵としていたのが同時代の自然主義者たちであった。彼ら自然主義者は言うのだ、徹底した自己批判を行い、主体と客体とを分離することで、客観的な観察者となり、そうした《目》で物事をみることで、あ […]
世界はいつまでたっても進歩しないし、変わっているように見えるが、何も変わっていない。相も変わらず奪いあい、騙しあい、殺しあっている。そればかりか、昨今の環境問題をみるかぎり、あるいは政治問題をみるかぎり、かつてみられた、 […]
フーコー、ドゥルーズ、デリダ。この三人が死に、いわゆるポスト構造主義をリードした人間がいなくなって思うことは、いまこそ、この三人の可能性が賭けられている、ということである。死は、人を、現在から、過去と未来とに送り返す。だ […]
「文学者」とは、いったいなにか。厳密論で行くならば、何らかの描写において、徹底的にリアリズムを追求したことのある者だけが、「文学者」でありうる。だが、もちろん、そうでない者もたくさんいる。彼らもまた、文学者であることには […]
さいきん、小林秀雄のことを考えることが多くなっている。歴史とは、たしかに抗いがたいものである。“世界史”や、あるいは大文字の歴史が、あくまで、思考のメタ・レヴェルに立つときに可能なものだとすれば、小林秀雄の言う《歴史》は […]
2:1、3:2、4:3、9:8、256:243……。 わたしは、ショパンの『幻想即興曲』を好んで弾く。この曲は、左手が6拍子を刻み、右手が8拍子を刻む。3:4になるので、左手と右手は分離せざるをえない。左手がひとつ音符を […]
文学、それは恐るべきものである。なにしろ、文学は、ネーションを作ってしまったのだから。その意味で言えば、あるひとつの文学的なものが、ネーションの胎動とともにあらわれ、そしてネーションの老化とともに消え去る運命にあるのもま […]
アメリカはどうしても戦争したいようだ。記者会見に挑むパウエル国防長官の苦悩が察せられる。まったくアメリカ追随の日本だが、本当にあの政権が長続きすると思っているのだろうか。フランスやドイツの明確な反米の態度は、そこまで見越 […]
書評は必要である。また、真に生産的なものとは、まずもって良質の書評から始まる。 たしかに以前、批評、あるいは思想が、文学を殺すと書いたことがある。だが、それは、むしろ歴史的に不可避なのであって、たんに否定すべきものではな […]
扉の向こうに何があるのか、わたしが考えていたことは、いつもそのことだけだった。扉を見ていると、無性に向こう側の空気が吸いたくなった。鍵穴がこちら側にあるので勘違いしていたのだが、てっきり、わたしは扉の外にいるのだと思って […]
柄谷行人の膨大な著作は、そのそれぞれが、独立して読める素晴らしい作品ばかりだが、しかし、これらを、一連の物語として読むことも可能である。物語として?彼がもっとも批判するもののひとつが、物語ではなかったか?ひとは、出来事を […]
いまも、アフガニスタンでは、ケシしか育たない荒野に劣化ウラン弾が落とされているのだろう。そして、誤爆で、およそ空爆を受けるいわれのない多数の貧民が突如として死を迎える。マラリアで死を迎えようとしていた子供が、爆弾で死ぬ。 […]
文学と予言とは、おそらく、密接なつながりがある。ギリシアにおける紀元前五世紀が、アイスキュロスや、ソフォクレス、そしてエウリピデスらによる「悲劇」の時代だったのは、デルフォイやオリュンピアなどの神託――すなわち予言が、何 […]