脱臼せる近代

criticism
2002.08.02

いまも、アフガニスタンでは、ケシしか育たない荒野に劣化ウラン弾が落とされているのだろう。そして、誤爆で、およそ空爆を受けるいわれのない多数の貧民が突如として死を迎える。マラリアで死を迎えようとしていた子供が、爆弾で死ぬ。言葉が暴力であるとは知りながら、でも、それが最小の暴力であるに違いないと信じて、言葉をひとつひとつ紡ぐいまこのとき、劣化ウラン弾が大地に毒を撒き、飛び散った破片が子供の肌に食い込む。アメリカはじきに滅びるさ、と言うとき、それはすでに知性とはほどとおい信仰に似たなにかに近くなる。

しかし、本当にアメリカが滅べば、世界はもっと悲惨なことになるだろう。だから、いま、アメリカを批判してはいけない、と人がいうとき、一瞬、わけがわからなくなる。そして、暗澹たる気分になる。アフガニスタンの子供たちが誤爆で死んでいくのを、見て見ぬふりをして、当の誤爆を行っているアメリカの軍隊の後ろにくっついて人道援助を決め込むしかないのだろうか。偽物を本物だと信じ込む人間の力を測りかねている。すべてが偽物だといってしまうのはたやすい。せめてより本物に近い偽物を信じることが、最良の選択肢なのだろうか。

ポストモダン。この言葉は、なんと、犯罪的に響くのだろう。文学は死滅したかに見える。だが、たしかにそう見えるとしても、本当はそうではないのだ。文学が何であったか忘れてしまっただけなのだ。忘れてしまったことすら忘れてしまう前に、できることをしよう。けっして、後戻りをするわけではないし、堂堂巡りをしているわけでもない。まだ、進む余地はある。人類は、いまだかつて、一度として言葉を使いこなせたためしがない。そのことが意味するのは、けっして、現状を肯定せよということではないし、諦めろということでもない。それなりに困難な道のりにはちがいないにせよ、少なくとも進むべき道が残っているのだけは確かだということである。諦めるには、まだ早すぎる。歴史はまだ続くのだ。後ろ向きに吹き飛ばされる歴史の天使にならおそらく見えるだろう、同伴者(モデル)が、わたしの数歩先を行くのを感じる。否、彼が、歴史の天使なのだろうか。それとも、わたしが、そうなのだろうか。

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