怪物か、それとも人間か

criticism
2004.11.12

ところで、夏目漱石がなにより戦い、敵としていたのが同時代の自然主義者たちであった。彼ら自然主義者は言うのだ、徹底した自己批判を行い、主体と客体とを分離することで、客観的な観察者となり、そうした《目》で物事をみることで、ありのままの《自然》を洞察し、またそれを再現することができる……と。

しかし、いくら自己批判を行おうが、自分はいなくなってはくれないわけで、自然主義者は、そうした消去しえない自己をみつけて、突如、自我の肯定=ロマン主義へと奔ったりする。ところが、ある意味で、このロマン主義もまた、窮極の自己批判と言えて、つまりロマン主義者は、自殺を美学的に肯定したりしてしまうのである。彼らは「吾等数人の犠牲によつて…」などと言う。

こうして、自己批判(他人本位)なのか、自己肯定(自己本位)なのか、自然主義なのかロマン主義なのか、まったくわけがわからなくなり、いわゆる石川啄木の《時代閉塞の現状》が語られたりするわけだが、彼はロマン主義を他方に生み出してしまうような広義の自然主義者たちを《スフィンクス》と呼んだ。つまり、いろんなものが交じり合った混合の怪物だと言うわけである。

(これは、ドゥルーズが『差異と反復』で怪物について述べていたことと、ほとんど同義だと考えてよい。『オイディプス王』で語られているとおり、エジプト帝国の神であるスフィンクスは、ギリシアの都市国家世界では、単なる混合の怪物となった。このことが意味しているのは、自然主義が《怪物》的であるように、帝国主義が、きわめて《怪物》的なものだ、ということである。明治期のアナーキスト、幸徳秋水が帝国主義を「怪物」と呼んで憚らなかったことも想起しておいてよいだろう。それらのことは、ギリシアが、エジプトあるいはペルシアに対して、まさにアンチ帝国として存在したということと符合している。したがってギリシア人は《怪物》ではなく、《人間》を標榜する。それは、たとえばギリシア人とエジプト人の髪型、あるいは彼らが崇拝する神の姿の違いを見れば分るだろう。ペルシア人やエジプト人は、髪を加工し、染め上げ、本来の人間の姿とはかけ離れた大仰なモニュメントを作った。また、神を、人間と異なる怪物として描き出した。だが、ギリシア人は、髪を人間のものとして表現し、また、神を人間と同じに扱った。)

ギリシアとエジプト/ペルシアの関係の話はさておき、話をもとに戻すと、問題なのは、自然主義(自己否定)とロマン主義(自己肯定)とを生み出してしまう広義の《自然主義》は、その内容物がお互い相容れないものであるにもかかわらず、相容れないままでお互いを要請してしまうことである。たとえば、今日もまだ、依然として多数の歴史学者が、科学的《実証主義》なるものを標榜し、客観的な事実なるものの究明に気炎をあげているが、そうした努力が、他方に、ロマンとして描かれる歴史小説を大量に生み出していることとよく似ている――というか同じものである。一般の人は、どちらがほんとうの歴史なのか、判断がつかないだろう。 どちらもが、多面的な真実がもつ一面であるにすぎないのであり、結局のところ、広義の《自然主義》者たちの努力は、ひとつの、あるいは複数の真実を、ただひとつの多面の《怪物》にしていくだけである。こうした事態が、人を《人間》ではなく《怪物》にしてしまう。《怪物》は、国粋主義を訴えながら、なおかつ、帝国主義的な海外進出をもくろむ。少々卑近な例で言えば、ある《怪物》にとって、「靖国」=日本と、「自衛隊の海外派兵」=アメリカというのはセットなのであり、また、別の《怪物》にとって、「世界平和」と「イラク戦争」はセットなのである。それらは、志向として、空間的にも時間的にもまったく別々の方向を向いているにもかかわらず、同時にお互いを要求している。つまり、それらは過去と未来、此方と彼方との雑色の混ぜ物なのであり、多面で異形の渾然の《怪物》なのである。こうした事態は、内戦的なもの――しかしきわめて外戦的な内戦を要請する。明治期の日本では、そのことは西南戦争や自由民権運動、そして大逆事件を生んでいる。啄木は、それで袋小路に入った。啄木には、自然主義(他者)も、ロマン主義(自己)も、どちらも選ぶことができなかったが、また、そのどちらか以外の選択肢も見つけられなかった。彼は若死にしたが、その原因のひとつは、この《怪物》的なものから脱却できなかったことにある。

さて、啄木よりも漱石が優れており、そして漱石の偉大さを後世にまで伝えているのは、この怪物的なものを、《無意識》として/において取り出したことである。

といっても、漱石がフロイトを読んでいたかどうかは関係なく、要するに、彼は、消去しえない自己を、自己として肯定してしまうのではなくて、自己が見出す自己とは無関係に存在してしまう潜勢的な非―自己のようなものを抽出し、ある意味で、非―自己と自己との相克として、人を描き出したのである。漱石の描き出したそれは、《怪物》ではなく、《人間》の姿をしている。自己否定と自己主張という、相容れない対立の折衷であるような(対立しながら存在する)怪物的《自然主義》とは異なり、漱石のそれは、いわば《人間主義》(ヒューマニズム)である。つまり、自己否定と自己主張は、お互いを意識的には全く知らないのであり――しかし無意識的にはよく知っており――、だから、両者は、対立することなく共存しうる。それらは、自己と他者、男と女の対立の線ではなく、自己と他者、男と女の進化の螺旋――といっても、スペンサー的進歩主義のような単純的なものよりももっと深い意味での――を描く。「ローマンチシズムと自然主義とは、世の中で考へてるやうに相反してるものぢやない。相対して一所になれんといふものぢやなくて、却て一つの筋がズート進行してるやうなものだ」(「「坑夫」の作意と自然派伝奇派の交渉」1908年)というわけだ。

《それ》(=人の意識)が潜勢的なものと、顕在的なものに分けられたとき、《それ》は、人を《怪物》から《人間》に変える。そして、顕在的なものは、狭義の《人間》として、そして、潜勢的なものが、《社会》として取り出される。このとき、立ち現れるのが、《歴史》である。意識と無意識をつなぐもの、《人間》と《社会》、《物》と《場所》を取り持つもの、これがすなわち、《歴史》(=時間)である。歴史=物語において、自己否定と自己主張のかつての対立は、同じひとつの線上で重なり合い、まるでわれわれは、ひとつの物語を作り出すために、勝者と敗者を演じ、協働しているのだと言わんばかりに交じり合う。かつては、実証主義的歴史と、ロマン(小説)的歴史に分かたれていた歴史は、そこでひとつになる。この“ひとつ”の歴史において、彼らは言う。われわれはじつは対立していないし、また雑多なもの(無価値なもの)の集まりでもない。したがって、怪物ではなく、人間である。違って見えるわれわれは、しかし、歴史において、“雑多”というより“多様”な意味=価値を持ち、歴史が進歩し続けるというそのことにおいて、われわれはさまざまに異なる怪物ではなく、さまざまだが同じ人間となる。

歴史において重要なのは、物を物として取り出す実証リアリズム(自然主義)でもなければ、物を自己の主観においてのみ取り出すロマンティシズムでもない。そのどちらでもなく、かつどちらでもあるような、サンボリズム(象徴主義)である。《象徴》は、物そのものではないが、けっして、主観的美学に彩られたロマン的に美しいものでもない。カント的に言えば、サブライム(崇高:美しくない、不気味なもの、霊的なものに感じる非-美学のようなもの)に相当するものであり、われわれは、そうした象徴的なものを、にもかかわらず、かえってリアルだと感じるだろう。われわれが触れえない《物自体》であると感じるだろう。それは、顕在的な記号と、潜勢的な意味の関係の学であるところの、精神分析の誕生であり、現象学の誕生であり、ソシュール流の言語学の誕生であり、そして、文学の真の誕生である。そこでは、かつて隆盛を誇った自然諸科学は後退し――というよりは、自然諸科学と人文諸科学の対立そのものが後退し、自然諸科学を飲み込んだ人文諸科学が日の目を見るだろう。そこでは、病は、自然科学によって解明されるのではなく、精神分析によってこそ――科学を内包した人文学によってこそ取り扱われるべきとされるだろう。

ここには、ある隠された分水嶺がある。サンボリズムは、それが生気を失ったものになれば、即座にかつてのロマン主義と同じものと化す。漱石の危険は、ここにある。漱石は、人を、《人間》として、すなわち、意味するものと意味されるものとの相克に塗れた苦悩する《人間》として描き出したが、それが人の全てだと読者に誤解され、また、漱石自身によってそう誤解されたとき、何かが潜勢化する。それは、《怪物》的なものである。《人間》の名の下に覆い隠され、潜勢化してしまった《怪物》は、そのことによって、ある対立を、しかも爆発的な対立的共存を準備する。――すなわち、全体化された戦争である。火と水と、生と死と、労働者と兵士とが一体化し、それらは全体化された戦争をもたらす。漱石から出発する教養主義者の系譜の末端にいた誰かが、思わず、“苦悩する《人間》の顔をしたマルクス”と言ったとき――それは、本来、人がもっている、笑いに満ちた《怪物》の隠蔽であり、ただの抑圧よりももっと深い、そしてその意味ではもはや抑圧と言うべきですらない、真の抑圧だったと思われる。わたしには、その分水嶺を、漱石に見出すべきであり、それも『それから』以後において見出すべきであると思われる。わたしには、苦悩する人間を描いた漱石は危険に見える。わたしなら、漱石よりも、苦悩する人間である自分に驚き、そして笑う志賀直哉を押すし、また、泉鏡花や室生犀星を押す。

若きニーチェは、当時のスペンサー的風潮に後押しされた周囲の実証主義者(自然主義者)を批判し、科学的歴史学から逃げ去ってしまったが、しかし、晩年において、カントをも批判していることを考慮しなければならない。なぜなら、彼の晩年のドイツは、まさに、スペンサーに取って代わった新カント派隆盛の時代だったからである。ニーチェは、実証主義者の前では《人間》であり、かつ、カント主義者の前では《怪物》として振舞った。この反時代性――二重の意味での反時代性に注目しなければならず、しかも、そのことを指摘しているのは、おそらく、わたしの知るかぎり、ドゥルーズとガタリ、そしてある意味でのフーコーだけである。

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