歴史と小林秀雄

criticism
2003.09.15

さいきん、小林秀雄のことを考えることが多くなっている。歴史とは、たしかに抗いがたいものである。“世界史”や、あるいは大文字の歴史が、あくまで、思考のメタ・レヴェルに立つときに可能なものだとすれば、小林秀雄の言う《歴史》は、むしろ、そのようなものの否定としてある。つまり、《物自体》である。それはもちろん、善も悪も、真も偽も超えて、唯一、美的にのみ語りうるような、崇高なものである。投げられた小石にとって、自らが落ちていくことも、あるいは昇っていくことも、善や悪、あるいは真や偽とは無関係である。ただ、美的にのみ、それは語りうる。

だが、おそらく、口で言うよりも、もっと、二つの歴史の境界は曖昧であり、またもっと、きわどいものである。ひとが、「歴史」を語るたびに陥る、あるロジカル・タイピングの混同を批判して、たとえば戦前/戦中/戦後を代表する作家である高見順のように、「生活」の水準を強固に貫き通す意思は、それがいかに潔癖で美しい生であったとしても、「歴史」の前では、あまりにもはかない。ひとが「歴史」を語るたびに陥るロジカル・タイピングの混同をあえて肯定し、アクロバティックに用いることを他方で可能性と呼ぶことはできるだろうか? おそらく、それは無理だ。お望みなら、数十億の人間の前で語ってみるがいい。もし、「歴史」という言葉を、厳密にある限界のなかで用いてみたところで、それでもまだ、一億の人間を前に語らねばならないのだ。少なくとも、わたしにはもはや手に負えない。「歴史」は、おそらく、最後には否定されるべきものとしてある。たとえば、アドルノのように。それが、おそらく、《わたし》に可能なすべてだ。高見順は相対的に、しかも圧倒的にただしい。しかし、なぜ、ひとは、飽きもせず「歴史」を思考するのだろうか? Ceterum censeo Carthaginem esse delendam. 文字通り消滅してしまったカルタゴをみて、滅せぬものの不在を、将軍スキピオ・アフリカヌスの口を借りて語ったポリュビオスなら、その答えを知っているかもしれない。

希望を語るべきだ。そのことは十分に承知している。だが、そうするにはあまりに絶望が足りないのだ。もっと深い絶望が。

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