カントの外

criticism
2002.09.15

扉の向こうに何があるのか、わたしが考えていたことは、いつもそのことだけだった。扉を見ていると、無性に向こう側の空気が吸いたくなった。鍵穴がこちら側にあるので勘違いしていたのだが、てっきり、わたしは扉の外にいるのだと思っていた。だが、どうやら、いつのまにか立場が逆転してしまったらしい。閉じ込められているのはわたしだったようだ。しかし、心配にはおよばない。なぜなら、わたしは鍵を持っているのだから。手の中で堅く握り締められたにび色の鍵を、扉に慎ましく取り付けられた鍵穴にそっと差し込む。鍵は一ミリたりとも動かない。窒息する。わずかに感じていた楽観的な気分は、坂を転げ落ちるように息苦しさに変わった。まるで扉の不意を打とうとでもするかのように、急激に腕に力をこめ、力任せに鍵をひねると、鍵は根元からねじ切れてしまい、鍵の残骸が無残に鍵穴に取り残されてしまった。鍵を持っていた右手の人差し指の付け根にできた傷口に、直径一ミリの血の玉が浮き出ていた。

いまさらながら、カントの天才に舌を巻く。ドゥルーズはカントを「敵」であると言い放ったが、わたしも言ってみたいものである(ついでにゲーテにもそう言いたい)。ドゥルーズは、ニーチェが『反時代的考察』でスタンダールの格言――社会に打って出るには決闘をもってせよ――を図らずも実行したように、そうしているのだ。もちろん、「敵」と言っても、それは両者の優劣が決するような勝負が行なわれることを意味しない。むしろ、ドゥルーズによるカントのカント的規定的判断であると言った方がいい。つまり、カント的に言えば、堅牢で難攻不落のカント的一般を放棄し、徹底して特殊において思想を行なうというドゥルーズの宣言だと言うべきである。このことは、カントを超越することでないのは明らかだろう。それは、もはや、「敵」という言葉とは裏腹に、カントの正統的継承とさえ言いうるものである。カントにせよ、ゲーテにせよ、その枠組を放棄することでそこから出られると考えるのは勘違いもはなはだしい。彼らは行きつ戻りつする歴史の正当なる進歩と言うべきものであり、どのみち多かれ少なかれ、そこから出発せざるをえないのである。そのうえで、わたしは、ドゥルーズのカオスの考察を好んで読む。そこに、わたしはある種の合目的性を読み取るのである。

なぜ、カントやゲーテが生まれえたのか。この素朴な疑問に答えるには、やはり歴史学が適しているかもしれない。歴史学的な視線を向ければ、カントやゲーテの時代を、“疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)”運動の時代において見るだろう。フランス革命があり、ナポレオンが登場し、ベートーヴェンが「運命」を謳い、産業革命を準備したこの時代の激動が、彼らを生んだのだと、「歴史(学)」は考えるのである。それは、ある意味で、カントやゲーテの築いた天才的牙城を、搦め手から攻める方法である。いや、攻めると言うにはあまりにも消極的な方法だろう。なぜといって、「歴史」という考え方そのものが、徹底的に受動的な考え方だからだ。もちろん、だからといって否定することはない。それは、単なる認識だと言うべきであり、悟性の立派な働きである。歴史学的な考察によって、カントやゲーテの価値が下がるということはありえないし、そこから出られるというわけでもないが、ただし、あらゆる意味において避けて通れないものであるということだ。注意すべきなのは、それにとらわれることである。それは、絶望を意味する。けっして訪れることのない同一の反復を待ち望むようなものである。まったく同一の歴史が繰り返されることなどけっしてない。そのような願望に取り付かれるとき、ひとは、病を患う。むしろ、病――精神病にかぎらず、病一般を意味する――とは、同一の反復を望むことの謂いであるに違いない(綜合と分析の混同)。

歴史にとらわれることなく、歴史をみる、ということ。そうして初めて、ドゥルーズが歴史を嫌い、カントを「敵」と呼んだ意味も見えてくる。ドゥルーズのこの決意表明が、感動的に響くのである。そして同時に、カントの天才が明らかになるだろう。歴史にとらわれることなく、歴史をみる、とは、すなわち、一般性にとらわれることなく、普遍を見いだす、ということにほかならない。特殊(単独)性は無媒介に普遍に通じると言ったドゥルーズを信じようではないか。

それにしても、なんと巨大な「敵」であることか。わたしには、ドゥルーズの作品がそうであるように、カントの三批判(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)――一見してもっとも芸術作品とはほど遠い作品――が、一個の巨大な芸術作品に見える。この時代を冠絶する怪物的な書物は、わたしの生涯を覆いつづけるに違いない。それは、きわめて絶望に近似した希望である。

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