ハルモニア

criticism
2003.07.15

2:1、3:2、4:3、9:8、256:243……。

わたしは、ショパンの『幻想即興曲』を好んで弾く。この曲は、左手が6拍子を刻み、右手が8拍子を刻む。3:4になるので、左手と右手は分離せざるをえない。左手がひとつ音符を奏でるたびに、右手は1.33333…個ずつ進む、などと考えていては、まず演奏できない。だいいち、割り切れないのだから、どこかでごまかすほかない。やはり、左手の六連符、右手の八連符、それぞれ独立させてワンセットで一気に弾いてしまう、というのが正解なのである。そして、よく考えるとわかるが、いくら両者の関係が割り切れないものであろうが、左手と右手の奏でるメロディーは、確実に、3:4の比例関係を保ちながら、成立している。要するに、テンポの違う曲を同時に流したようなものなのであって、もちろん、それぞれが独立に成立しているのだから、割り切れるとか割り切れないとかいうことは、人間の頭だけの話なのだ。

この曲は、めまぐるしいスピードで展開して行く。それぞれ自らの速度で相手と無関係に演奏している両手の指先を眺めていると、この3:4の関係が、わたしに異様な心地よさを与えてくれる。たしかに、わたしの頭は二つのメロディーを確実に統合している。だが、当の両手は、そうした統合にはいっさい無関心なのだ。これこそが自由だ……。音楽が、中世ヨーロッパにおいて、七自由学芸(Septem artes liberales)のひとつであったことを想起するまでもないだろう。

こうした3:4の関係になっている曲といえば、たとえばドビュッシーの『アラベスク』の一部がそうである(これもわたしがよく弾く曲のひとつである)。あの曲の浮遊感というか、心地よさの源泉は、やはり、ブリッジの部分のEから下降する三連符のフレーズと、左手の八分音符のあいだにある「割り切れない」関係にこそあると言うべきだろう。それだけではない。さらに言えば、あのハーモニーもまた、割り切れない関係において成立している。つまり、4度と5度という二種類の異なる原理に基づく協和音程の統合である。思えば、ピタゴラスはこのように考えていた。ハルモニアが必要になるのは、そもそも、等しくもなく、関連性もなく、そして不均等であるからこそ、なのであって、等しく、また関連のあるもののあいだには、ハルモニアはけっして必要がない、と。オクターヴ(8度)は最初の基音(トニック)とのあいだの関係で言えばちょうど2:1になっているが、これは、まさしく、4度(4:3)と5度(3:2)という異質な原理が見事に統合されうるということを物語っているのである。

さて、エドワード・サイードは、二民族国家を言った。昨今のパレスチナの状況を嘆いてである。ひとはそれを、幻想であると笑うだろうか。しかしわたしは、それを、幻想であるとはまったく思わない。異なる原理がそれぞれ独自に働いているあの『幻想即興曲』は、まさにひとつの作品として、紛れもなく存在しているからである――それこそ、イスラム教徒の織り成したアラベスクのように。少なくとも、国民国家のような排他的なものよりは、よほど健全である。そこには、ハルモニアなど、存在しようがないからである。

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