ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権(法)」についても論じていた。むしろこの三つの状 […]
事故とはなにか。 本来、事故は持続的に起こるものではない。点で生じる。仮に持続したとしても、持続をもって事故とは本質的に考えない。しかしその反対の安全は、持続的でなければ意味がない。ある瞬間に安全でも、次の瞬間に死ぬ可能 […]
正論を吐くことで政治的に極端な立場を表明しているようにみえることは、たしかにある。それ以上に、正論には権力的な響きがある。1に1を足せばたしかに2になるだろう。だが、その正論さえ権力的に聞こえる。煩(うるさ)いといいたく […]
文学はどこへ行ったのか。文学はまったくの無に帰してしまうものなのか、それとも永遠につづいていくのかはわからない。わかっていることは、消えて生まれるもの、ということだ。滅び、そして誕生する、それが文学である。文学は、おのれ […]
学者にとっての実践とは、自分の頭で考えることであり、本を読むことではない。実学と虚学という分割は不毛であり、ましてや、実社会でお金のやり取りをすることが実践で、学者は理論にだけかかわっているというのは、学者自身も陥りがち […]
わたしは文献に日々たずさわる文献学者である。その立場からみた最大の痛恨事のひとつは、一部のストア哲学である。その重要なテクストが、いまでは灰になってしまい、復元などとうてい不可能な程度の断片だけが残されることになった。と […]
このところ身体の一部で感じているのは、懐疑につぐ懐疑、超越論につぐ超越論のはてに、神学的ドグマに回帰する傾向である。私はなにものをも決定しない、という態度は、究極的には、神(宗教)にすべての決定を委ねる神学的ドグマに行き […]
柄谷行人は世界史を《交換》の視座から考察する(たとえば、近著『世界史の構造』を参照せよ)。彼があげる交換様式は三つ。ひとつは贈与とその互酬。二つ目は、略取と再分配、三つ目は商品交換である。「贈与とその互酬」は共同体に、「 […]
ここ数日ある政治家をみていて、ひさしぶりになんともいえぬ感興を覚えた。同時代人として、こういう政治家に出会えたことに対するそれ。政治家に一流などいないと思っていた自分の浅墓さを詫びたい気持ちになる。ある程度権力をもった政 […]
脱構築に希望を見いだしたひとは、おそらく、ドゥルーズやフーコーの思考を紛れ込ませていただろうし、デリダを純粋に読んだなら、かえって社会の変革不可能性を見いだしたはずである。しかしそれはもっと馬鹿げている。 ところで、内容 […]
わたしは「言葉」について、昨今流通している言語論とは違う考え方をしている。ひとは本質的におしゃべりである。喋るのをやめることはない。 最後の言葉があるのだろうか。誰が最後の言葉を吐くのか。最後の言葉はなにか。最後の言葉は […]
消え去る意志を持つ者だけが、歴史に名を残す。歴史とは、元来、消え去るものにかけられる深い愛情だからである。優れた芸術が時空を超えるのは、それらの芸術が消え去るものを表現しているからである。 われわれは、消え去る過程にいる […]
なぜ内面が発生するのだろうか。 気になるのは視覚である。というのも、聴覚や嗅覚、触覚は、身体の内側も感覚しているが、視覚はそうではないからだ。たとえば心臓の音を聞き、内蔵の匂いを嗅ぎ、骨の位置を感覚することができる。しか […]
表現する、とは、内面を抹消すること、つまり内面を皮膚として扱うことである。こうした表現世界において、芸術は極大の価値をもつ。政治にせよ、学問にせよ、経済にせよ、それらが皮膚において生じているかぎり、芸術はそれらと同じ場所 […]
原則的に、歴史の登場人物はみな明るい。とくにギリシア人ときたら。彼らには陰鬱な部分はみじんもない。彼らはいっさい、隠し事をしない。 ギリシア人は、人間がもつべき一切の深みを欠いている。たとえばオイディプスは、アポロンの神 […]
ひとは他者について、とても表面的だと感じている。過去の文化や他国の文化について、それらはいかにも表面的に見えるのだ。これらはオリエンタリズムの一種だが、空間的なものではなく、時間的にも存在していて、古い演劇で用いられる仮 […]
マイケル・ジャクソンが死んだとき、書こうと思っていたことがある。それをずっと書かないでいた。なぜだろう? たぶん、世間が大騒ぎして書く気が失せたのだ。そして忘れていた。だが、ふと思い出した。アメリカ合衆国とは《何だった》 […]
ニューヨーク・タイムズは、5月23日付けの記事、“Japan Relents on U.S. Base on Okinawa”のなかで、「オバマ米政権の勝利であり、鳩山首相にとっては屈辱的な後退a victory for […]
欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を […]
マスメディアのあいだであふれている言葉が、ほとんどすべてリプレゼンテーションであることは容易に察しがつく。彼らには、ほんとうにいいたいことは別にあって、ずっと「意味」を隠しているのだ。デリダがいうように、この種の言葉は、 […]
新しい世代の人間は、なにかを捨てながら進むと、ニーチェは言っていた。捨てるからには一度は拾わねばならない。しかしやはりそれは捨てられねばならない。われわれがそれを拾うとき、不思議なことに、じつはわれわれ自身が歴史に回収さ […]
独断論や決断主義の批判が懐疑論や相対主義を生むのであってはならない。結局、ひとは独断を迫られる。ゲーデルやピュロンの死をみれば、無限の懐疑がいかに衰弱を生むかわかるはずである。 自分ひとりいい気になっているといわれたこと […]
知識人としては失格かもしれないが、わたしは素朴な人間で、依然として小沢‐鳩山体制には――とりわけ外交の点で――期待している(とはいえ前回の選挙でどこに投票したのかは秘密だし、今後民主党内でありうるほかの体制にはほとんど期 […]
量子力学のことが知りたいと思って、京都大学は基礎物理学研究所の周りをうろついていると、なぜか湯川秀樹が残した膨大な資料(そこには、一九三〇年代に書かれた中間子論の自筆の原稿が含まれるばかりでなく、バートランド・ラッセルや […]
ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味(こう言ってよければ《意味されるも […]
ユークリッド(エウクレイデス)の第五公準、いわゆる平行線の公準は破られて久しい。この事態を文学的に翻訳するなら、それは、〈平行線は交わる〉ということである。第五公準とは次のようなものであった。 二つの直線が第三の直線と相 […]
わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じて […]
ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま […]
わたしの愛するポストモダニストたちがいる(この言葉を、あえてよい意味で使おう)。年齢順にいえば、ニーチェ、ベンヤミン、ドゥルーズ、そしてフーコーである。ホメロスやプラトン、デカルトやゲーテも愛しているが、彼らには途方もな […]
ハイゼンベルク(1)の不確定性原理Uncertainty principleは奇妙なものである。この原理を生活レベルに(つまりあえてマクロレベルに)翻訳すればこうなる。われわれがグラスなどの対象をみるとき、目から発せられ […]