盗みと贈与――世界史にとって、交換の視座は有効か?

criticism
2010.10.16

柄谷行人は世界史を《交換》の視座から考察する(たとえば、近著『世界史の構造』を参照せよ)。彼があげる交換様式は三つ。ひとつは贈与とその互酬。二つ目は、略取と再分配、三つ目は商品交換である。「贈与とその互酬」は共同体に、「略取と再分配」は国家に、「商品交換」は資本主義に対応する。さらに、互酬システムの高次元の回復とされる四つ目の交換様式がある。これは、柄谷によれば、カントのいう統整的な理念であり、積極的に提示されるものではない。しかし、きたるべき「世界共和国」がもっているだろう交換様式であるという。

まことにカント的であり、かつ資本主義的な議論である。わたしは、ストア主義者のいうような「世界共和国」にも、そしてニーチェのいうような「贈与」にも賛同する。だが、そこに至る道のりは、柄谷の意見とちがう。彼が古いマルクス主義の「生産様式」を批判して掲げた《交換》の視座をとらない。贈与にせよ、略取(=盗み)にせよ、そして「商品交換」でさえ、原理的に交換ではありえないからである。いずれも一方的な暴力を含むのであり、そうあってこそ、贈与や略取=盗み、そして結局「商品交換」も成立する。非対称であるがゆえに生じる暴力=差異、それが贈与であり盗みである。そればかりか「商品交換」でさえ、贈与や盗みの一種である。だからわたしは《贈与と盗み》を交換の根底に置く★1。交換はシニフィアンに、贈与と盗みはシーニュにかかわる。盗みと贈与を根底に置く、とは、価値のやりとりにおいて、かならず差異が残ることを前提にする、そしてむしろこの差異、この非対称性こそ本質と考えることだ。逆に交換は、その差異の抹消を前提することである。非対称の交換という言い方は実践的な意義をもたない。交換の非対称性という言い方も現実的ではない。それは、思考上の段階的ツールとしてはありえても、平和のための戦争というくらい非現実的かつ非実践的な概念である。こうした矛盾を概念が弁証法的に隠しているとしたら、それを可能にする原理的根底を別に考え直すのがふつうであろう。だが柄谷は、交換様式の視座から離れることができない。

  • ★1 ドゥルーズは交換を一般性と再現前化の指標に、贈与と盗みを単独的なものの反復の指標に振り分けていた(『差異と反復』)。わたしの立場は彼に近い。ところで、わたしは《交換》を否定しているのではない。むしろ人間が生み出した文化のひとつとして、というか文化そのものとして肯定している。

ともあれ、交換である以上、共有可能なもの、すなわち同一性がかならず要求される。盗みと贈与を《交換》に仕立てるためには、贈る者と贈られる者、奪う者と奪われる者とのあいだに、なんらかの対称性がねつ造されねばならない。そこで互酬や再分配のような、非対称性(差異)の抹消が行われる。それらが対称的であると判断するために、超越論的な場が仮構される。前近代には神や王が、近代には、歴史や貨幣が、その役割を担う。それが国家や資本主義社会などの共同体に結実する。

三つ目の交換様式である、商品交換について考えてみよう。一つ目の交換様式も、二つ目の交換様式も、資本主義的なこの第三の交換様式から遡ってみられたものにすぎないようにみえるからである。商品の等価交換が実現するためには、多様きわまる「価値」を数量化する貨幣が抽出されていなければならない。そしてこの貨幣こそが、《交換》という観念を可能にする。つまり、互酬や再分配が行う曖昧な等価交換を、より厳密なものにするのが、貨幣である。だがわれわれは、たとえばある商品を購入する際、それに付された価格どおりの価値を発揮するのか疑う権利がつねある。そしてこの疑いは絶対的に正しい。価格と価値が一致するとしたら、それはほぼありえない気狂いじみた偶然である。むしろ、商品に付けられた価格は、それに相当する通貨と商品のやりとりを「等価交換とみなせ」という指令である。もう少しマイルドにいうと、特定の通貨を共有している対称的なひとたちのあいだでだけ、等価交換は成立する。互酬も再分配も同じことである。それが本当に交換なのかを判断する術を、ひとは持たない。価値のやりとりにまつわって発生する本質的な差異を、権力や信仰や暗黙の契約が埋める。それがある種の交換の謂いである。逆にいえば、これらが行うのは、贈与や盗みよりももっとたちの悪い、差異の暴力的な抹消である。ベンヤミン風にいうと、贈与や盗みは神的暴力だが、交換は神話的暴力である。

繰り返せば、本質的にいって、「贈与とその互酬」や「略取と再分配」のみならず、「商品交換」でさえ、厳密な等価交換が成立する可能性はほぼ皆無である。ひとびとの抱く《価値》それ自体が、徹頭徹尾、同一性のありえない差異だからである。現実的には、あらゆるコミュニケーションは、贈与か盗み、あるいはその両方である。コミュニケーションの背後ではたらくもうひとつの暗黙の原理が働かないかぎり、交換は成立しない。つまり、交換という視座には、かならず欲望の屈折が込められていて、その屈折、その隠蔽を正当なものとみなす権力が発生している。わたしが奪うのは、あとで再分配するためだ。わたしが贈与するのは、あなたがお返しをしてくれるからだ。わたしたちはあくまで交換したのであって、けっして不当な利益は得ていない……。こうした暗い欲望の屈折がないかぎり交換は成立しない。《交換》とは、ひとの本質的な非対称性の隠蔽以外のなにものでもない。

柄谷の提示する三つの交換様式は相当強固である。この様式を打ち破って来たるべき新しい世界をもたらすのはきわめて困難にみえる。その原因は、彼が掲げる《交換》の視座そのものにある。《交換》の視座は、曲がりなりにも交換が可能であるという前提に立つ以上、共同体構成員の対称性を暗黙のうちに想定しないわけにはいかない。したがって、この視座自体が、オートポイエーシス的に、構成員の対称性を再生産してしまっていることになる。構成員が対称的であるような共同体のどこに、革命の必要があるだろうか。彼が非難するボロメオの輪をつくっているのは、この視座そのものである。

付け加えておけば、モースは「贈与」について画期的な視点を提示した。だが、結局、「ハウ」のような悪い観念にかかわりすぎ、彼自身が「円卓」の比喩でその可能性を閉ざしてしまった。円卓のような回転対称性が前提されるかぎり、贈与の連鎖がおりなす差異の螺旋は、早い段階で再帰し(つまり交換=同じものの反復となり)閉ざされてしまう。世界にたどりつくほどの円を描くのはほぼ不可能である――というか、世界を閉ざされた円のなかに封じ込めることにしかならない。見返りを前提にした贈与を主流とする共同体など、世界大のものはおろか、世界帝国でさえ、ただの一度も形成されたことはない。それが世界史である。

《交換》の視座を貫くかぎり、世界同時革命など起こりようがないのだ。革命とは、隠蔽されていた非対称性の発露、つまり圧倒的な盗みと贈与、およびその肯定である(革命revolutionを、回って戻る回転対称性を備えるものと定義するのであれば、われわれはそれに代えて、非対称の螺旋を描きつつ回りながら進む進化evolutionを提示する)。対称性を可能にする超越論の打倒こそ、革命がになうべきものだとするなら、まずもって、革命は、柄谷のいう《交換》の視座にこそ、その刃を向けるだろう。

マルクスの好んだ自然史的な発想からいえば、交換は発生したことがない。むしろそこには、かならず差異が残った。つまりなんらかの贈与や盗みがつねに発生していたのであり、この差異の連鎖、この差分こそが世界を可能ならしめていたように思われる。そうと信じたくはないが、柄谷は、マルクスをこの自然史の深みにおいて、読んだだろうか。太陽と木々は交換しているわけではない。たんに木々は光を奪い、太陽は光を贈る。雨と土もまた同じである。交換などしていない。たんに雨は贈り、土はそれを奪う。ひとも同じである。男は与え、女は奪う。資本家は奪い、労働者は贈る。そのことのたえざる反復が、世界である。交換が真に実現する瞬間とは、おそらく宇宙の終わりを意味していよう。しかし宇宙が終わるのでもないのに、交換が実現したというのであれば、それは想像的なもの以外にありえない。《交換》の視座は、おそらく世界史的というより、ナショナルである。交換不能な場所での交換、などといったところで言葉遊びである。世界史という概念に意味を与えたいなら――つまり自然史と同様に考えたいなら、《交換》の視座は捨てねばならない。柄谷の議論はたしかに精緻になった。だが、「想像の共同体」の見地から、一歩も出られていないと、わたしは思う。

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