安全から安心へ、あるいは恐怖による統治

criticism
2011.05.21

事故とはなにか。

本来、事故は持続的に起こるものではない。点で生じる。仮に持続したとしても、持続をもって事故とは本質的に考えない。しかしその反対の安全は、持続的でなければ意味がない。ある瞬間に安全でも、次の瞬間に死ぬ可能性があるなら、それは安全とはいわない。危険である。だが、この持続の範囲は決まっていない。この範囲を決めるのはじつは同じ対象について起こる事故である。したがって、すこし視界を広げると、安全と事故とはいつも隣り合わせになっている。すなわち、事故の可能性がある場所でしか、安全は問題化されない。安全、危険、事故。この奇怪なトライアングルのなかで安全神話が形成される。それは文字通り、現実をもとにしているというより信じる類いのものである。実際には、安全かどうかは、事故が起こるまでわからない。事故のないあいだは、安全が持続することを信じるしかないし、危険な状態と完全に区別することは不可能である。不思議なことだが、いかに事故の可能性をひとつひとつ、さまざまな技術を駆使して潰していっても、そのことによって、事故が起こる確率は少しも下がらない。安全対策によって、安全といえる期間が長くなることはあっても、事故が起こるか起こらないかという確率にはまったく関与できない。持続と点とでは、問題が重なり合わない。

したがって、本来、究極的な安全がありえないにもかかわらず、《安全》というテーマが議論すべきものとして用意された時点で、原発推進側は反対派がわからないうちに、一歩前進していることになる(だから反対派はこの議論に乗ってはいけない)。

shelter

原発をやめるのか、それとも完全な安全対策を求めるのか、という二者択一がここではどうしても釣り合ってしまう。そして次第に《安全か危険か》という方向に議論が推移していく。事故なしには証明しえない、持続にもとづく安全は、事実上危険と裏腹の関係にある。事故は点でしか生じない。したがって、事故がない持続状態においては、将来の事故という不測の事態は論理的にどう考えても根拠にできない。あるひとつの状態を危険というか安全というかは観測される予兆の《解釈問題》になってしまう。そしてひとは、どうしても安全に賭ける選択肢をとりがちである。なぜなら、ひとには希望があるからである。破局ののちに復興を促すのも希望だが、目前に迫った破局を黙殺するのも希望である。この問題構成ができれば、つぎは安全対策の質を問う議論に移行する。科学的データの解釈問題になれば、それは必然的に平時には右や左といった政治の問題になる。政治問題化すれば、どちらか都合のよい立場をもとに、原発を再稼働することがいずれ可能になる。どれほど間違った意見だろうが、対立意見を無視することは許されない、それが近代民主主義のルールだからである。適当なところで政府が《安全宣言》を出せば、国民はそれを信じるしかない。もちろん信じるだろう。《安全神話》を信じた希望に塗れた国民は、確実にこの《安全宣言》を信じる。信じる身振り以外とりようのないところに、国民はすでに追いつめられている。ここまでの推移は、予言でもなんでもない。安全をテーマにした瞬間に生じている茶番である。

「安全対策」を問題化した現内閣の方針が国民のあいだで共通理解になるとすれば、流れはよくない。歴史が繰り返される感じを拭うことができない。ひとはなにかを信じたい。だから騙された人間ほど、ひとの言葉をますます信じるようになる。「安全」という言葉に騙された同じ人間が、今度は、現内閣の一部原発の停止を都合よく解釈してしまう。信じようとしてしまう。こういう悪循環にはまってしまうひとたちを、《国民》というのだろう。いや、《安全》をテーマにしているのは政府ではない。国民である。目前にせまった危険をその場しのぎで遠ざけることが目的なのだから(安全とは究極的にはそういうものだ)、一番近くの原発さえ停まればいいと、もともと国民自身が望んだことだったのかもしれない。

事故後、いまだ予断を許さぬ原発の周囲で、多くの人間が作業に従事している。そこは、一人の生に九十九人の生が優先される、カール・シュミットのいわゆる「例外状態Ausnahmezustand」である。まさにこの場所で、国家の力と存在理由とが燃料棒のように露出している。よい国家。それは、例外状態において、九十九人の生存のために一人の生を犠牲にする、この決断が躊躇なくできることである。もちろん、この論理にひとは耐えられない。生の軽重を量ることは、近代以降の人間にはできない。だからこそ、それが国家の存在理由になる。国家は暗黙のうちにそれを遂行する。誰がではない。国家が行なう。国家を分解していけば、善良な九十九人の国民に行き当たるが、とにかくそれは国家というオブラートに包まれている。

こうした「例外状態」においてなんらかの決断を下すもの、それが国家である、とシュミットはいう(「主権者とは、例外状態に関して決断を下す者である」『政治神学』)。だが、わたしにはそうは思えない。というのも、そもそもこの例外状態を作り出しているのは、外からやってきた不測の事態というより、「原発」という、国家が建設したものだからである。

戦後の原子力政策を紐解くと、すぐにわかることがある。原発はもともと国防のための技術的資源を確保するために作られている、ということである。その過程で副次的な産物はあれど、究極的には核兵器の配備に向けた軍事政策である(そしてこの軍事政策を後押ししているのはアメリカである)。要するに、原発は戦争にかかわっているのだが、戦争を窮極の典型とする「例外状態」は、結局は国家によってもたらされる。したがって、相対的に国家から遠い存在であればあるほど、「例外状態」といっても国家が作り出しているものにしかみえず、「決断」といってもあらかじめ定められた成り行きを言葉で追認するようにしかみえない。もう誰かが死なねばならないことは国家が決断するより前に決まっているのであって、ただ貧しい人間が自ら手を挙げるのを待っていればいい。勇敢な人間がいるならそれにこしたことはないが、そういう人間がいなくても、貧しい人間のストックはかぎりなくある。明日の食事にも困っている職のない人間は、兵士にもなれば、テロリストにもなり、事故を起こすかもしれない原発の作業員にもなる。明日餓死するよりはましだからである。

したがって、シュミットに反していえば、国家は決断しない。むしろ、決断という茶番を演じるに必要な「例外状態」を作り出す。規範的な状態、すなわち危険と裏腹な「安全」状態を作り出すことによって。

しかし、「例外状態」を「剥き出しの生」に重ねて優れた議論を展開したジョルジョ・アガンベンをこえていえば、テロの可能性をたえず考えていなければならない状態とはどのような状態だろうか。例外状態と規範的状態との差異は、国家による恣意的かつ希望的観測にもとづく《安全か危険か》の解釈に依存している。そうである以上、例外状態はもはや意味をなさない。現実的には、たんに百人のなかからランダムに一人殺す(テロリストによるのか、はたまた国家によるのか)ことを、「九十九人救う」と別の言い方で表現しているようにしかみえなくなってくる。

《安全か危険か》という問題構成をこえるなにかを提示できなければ、いつまでも同じ道から抜け出すことはできない。だが、抜け出すのは容易ではない。原発の廃止を論じようとすると(あるいはテロでもかまわない)、どうしても思考がこの問題構成に収斂される。国民が生み出しているこの問題構成そのものが、国家なのだ。

それどころか、もっと悪い問題構成に移行している様子が見て取れる。というのも、安全が科学的・確率論的な問題だったとすれば、もはや確率論を弄する必要のないところに問題が移行している。確実に事故は起こる。同じように、テロも完全に防ぐことは不可能だ。だから、もはや確率は関係ない。つまり、もっぱら精神的な問題である、《安心か恐怖か》である。安全が解釈問題にすり替わってしまうとすれば、それはもはや精神上の安心と大差はなくなる。どれほどの危険にさらされていようと、ひとは感覚を遮断すれば《安心》することができる。そうとしらずに綱渡りをするように、危険と安心は共存可能である。ひとはどこかでかならず死ぬ。だからそれを安全や危険で論じても仕方がない。宿命的な死に際して必要なのは、安心か恐怖かの問いである。フーコーやドゥルーズは、安全にもとづく生政治的な統治を指摘していた。安全は、肉体的な問題、言い換えれば科学的分析に耐える物理的な要素をもっている。だが、今後、それは安心にもとづく(悪い)《精神の政治》に移行していくようにみえる。もはや科学的分析は立ち行かない。それは、裏を返せば、人間が人間を恐れる《恐怖による統治》である。

原発は恐ろしい。もちろん、これは科学的分析の裏付けがあることだから、たんに恐ろしいのではなく危険なのだが、とにかくいまは恐ろしいという感情が先立つ。これだけはわたしも含め、いまや万人に共有されている。原発が怖くないと考えているのは、日本では原発設置を推進した科学技術庁を吸収した文科省と内閣府、あるいは経済決定論に浸りきった官僚や政治家、電力会社だけで、彼らは最近では狂人扱いである。

核兵器が悪魔のような兵器であること、つまり目に見える以上に恐ろしい兵器であることは、核兵器をまともに投下された唯一の国である日本では、誰もが教育をうけてよく知っている。しかし、今となってみれば、この悪魔にとって、これほど都合のよいことはなかったようにみえる。なぜなら、この悪魔はひとびとの恐怖を糧に、世界に君臨していたからである。持ちたがる側にせよ使われるかもしれない側にせよ、少なからぬ人間が「核の傘」を必要と考えるのは、この兵器が極度に恐ろしいからである。

多くのひとが核兵器を恐れれば恐れるほど、それを利用することを覚えた一部のひとたちは圧倒的な優位に立つことができる。原発も同じである。核を受け容れた自治体は、その見返りを享受することができる。かくして核を利用するひとたちの奇怪な共同体ができあがる。あえて悪魔の力に手を出したおかげで得た旨味の多くは、手を出さなかった人間の恐怖を鏡に映したものである。ひとを危険に、さもなければ恐怖にさらす状況を与えておいて、なおかつその裏では「安全」という、言葉の意味からいえばせいぜい安全というより安心にすぎない《言説》で統治する。それが戦後社会の構図である。

安全か危険か、という問いは、いずれ安心か恐怖かの問いに横滑りしていかざるをえない。安全という確実性を問題化した《科学》に穴をあける事故は、今後も今まで同様、かならず起きる。科学が進歩すればするほど、安全の問題は極度に先鋭化してくる。わずかな疎漏が空前の事故につながる。科学が退歩するのでないかぎり、安全性の観点から科学が立ち行かなくなるのは目に見えている。とすれば、もはやフィジクスは問題化できない。モノの手前で、ともかく安心か恐怖かを選択する精神的な問題に、ことが移行していく。

わたしは原発を廃止したいと考えている人間だ。それは、持っていないひと(たとえば貧しいひと)から、あるいは遠くにいるひと(空間的には田舎に住んでいるひと、時間的には未来の子供たち)から順番に死んでいく国家におなじみの構造を、この施設も引き継いでいるからである。そして、この技術が戦争のために用いられるのを避けることができないからである。どれほど技術が稚拙でも、爆発力をコントロールする必要がなく、たんに成り行き任せに極限まで爆発してかまわない兵器としては、つねに転用可能だろう。そして、たんに兵器として生産する以上に国民を欺くカムフラージュをともなう原発というやり方は、あまりに卑劣である。もし仮に核兵器として使用されたとき、それでは国民が責任を取ることができなくなる。すなわち、同じ歴史の繰り返しである。

だが同時に、恐怖によって原発を廃止しようとするならば、わたしはそれには反対する。民衆の恐怖心に訴えるやり方は、わたしは廃止に至るやり方として卑劣であるばかりでなく、結果的に民衆が恐怖を感じない程度に遠ざけることにはなっても、おそらく廃止にはつながらないと思うからである。なぜなら、恐怖によって遠ざけるやりかたは、遠くのひとから死んでいく原発の構造と、うんざりするほどなにも変わらないからである。恐怖とは、もっぱら感情的な、(悪い)精神的な問題にすぎない。感覚することができないほど遠くにあるものに対して、ひとは無頓着である。そしてそれが人間というものだから、それを責めても仕方がないし、そうなるよりほかないのである。ひとは近くの災厄は未然に忌避する。だが、遠くの災厄は同情するのが精一杯である。なにより、戦後の日本が、そのことを証明している。あれほど核兵器の恐怖を叩き込まれてきた子どもたちが、原発の存在を奇怪な無関心のなかで容認している。これ以上の実態を挙げる必要があるだろうか。

今度は違うと思うだろうか。今度こそは、心の底から脅えて、原発を廃止するだろうか。恐怖が廃止への道のりのエネルギーになるだろうか。だが、わたしにはそれは希望的観測にしかみえない。原発を廃止するという歴史的事態が恐怖から生じるとしたら、その前に第二次世界大戦ののちに戦争が禁じられている。根拠なき希望的観測を、またひとは選んでしまうのか。

これまでもそうだったように、これから原発の周囲で、多くの動植物が生まれそして死ぬだろう。なかには背骨の曲がったメダカのような生命が生まれてすぐに死ぬかもしれない。原発は怖いが、放射線を浴びた動植物は怖くないと言えるひとがどれくらいいるだろうか。わたしは正直悲観的だ。いくら無害といわれても、出自を知っていたら触らない。食べない。それが普通のひとの感覚だ。感覚できるものは怖いのだから。原発への恐怖と、背骨の曲がったメダカへの愛は、共存しうるだろうかと考えれば、わたしは悲観的にならざるをえない。

そしてなにより反対するのは、それによって、恐怖に戦く人間が形成されるからである。前に進むよりは諦めと躊躇いのなかで、その場にとどまるのがいい。一歩踏み出して過ちを犯すくらいなら、踏み出さず過ちにも真理にも触れず引き返したほうがいい。言葉は過つ。だから沈黙するのがいい。こうした論点は、昨今のカント主義的他者論に、合致している。しすぎている。だがそれは、(政府に都合の悪い形で)事実と乖離した風評を禁じる政府の態度となにがちがうのか。風評というもっぱら(悪い)精神的な問題で民衆から言葉を禁じる政府のやりかたと、なにが違うのか。過ちを恐れず一歩前に足を踏み出したかつての科学者たちは、強烈な責任意識とともに、世界の平和のためにその労を惜しまぬひとたちだった(フーコーが絶賛していたのは、彼らのような、特殊領域の知識人である)。彼らだからこそ、国家の欺瞞を知りながら前に進む勇気ある選択をしたのであり、そしてわれわれの世代はその責任意識を完全に欠落させ、彼らの選択を誤ったものにしたのである。

一度でも、恐怖のためにやりかけたことをやめてしまったら、恐怖で統治するのは簡単になる。そして本当に恐るべきことは、これからまさに恐怖による統治が始まろうとしているかもしれないこのときに、その選択を選ぶことがなにを意味するのかということである。人間に対する人間の恐怖を肯定するなら、それはどのような国家を作ることになるのか。国家を作るのは、われわれひとりひとりの精神である。この精神が、国家として時を置いて結晶化する。つまり結局はこうしたひとびとの精神が、先述した恐怖による統治の糧なのである。だからわたしは、恐怖から原発を廃止することに反対する。それではおそらく廃止などできないし、できてもできなくても人間はますます臆病になる。恐怖のなか、恐怖のために原発を廃止するくらいなら、わたしはあえて、わたしなりに原発といままでどおりつきあうことを選ぶ。

わたしが必要だと思うのは、勇気によって原発を廃止に持ち込むことである。それは前進と上昇の意志を見せることであり、すなわち新しい発明と新しい技術によって、放射線に脅えねばならぬ原子力を過去のものにすることである。わたしには、それ以外に原子力を葬り去る道があるとは思えない。自分が完全に正しいとは思っていない。依然として、危ない、怖い、だからやめよう、という論理には力強いシンプルさがある。だがわたしの口は、科学者は勇気とともに技術革新に踏み出せ、人文学者は科学者に革新のための夢をもたらせ、としか、言わないのである。

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