二つの言語論(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ3)

criticism
2010.04.11

ジャック・デリダは言う。

比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味(こう言ってよければ《意味されるもの》)の過程として理解されねばならない。観念とは意味される意味であり、語が表現するところのものである。だがこれはまた事物の記号であり、私の精神における対象の代理でもある。対象を意味し、語あるいは言語的な《意味するもの》一般によって意味されるこの対象の代理は、けっきょく間接的に感情や情念を意味することもできる。

『グラマトロジーについて』(足立和浩訳)

彼は言語をある種の「隔たり」であると考える。というか、「隔たり」を作り出すものだと考える。彼の用語で、「間化(エスパスマン)」という。別の言い方をすれば、「隠喩」である。言語とは、究極的になにものかの隠喩であり、しかもそれが名指す対象はついに痕跡の形でしか捉えることはできないものである。言語の対象は、必然的にそれ自身が担う《隠喩性》そのものであって、それを越えることはない。こうした言語観にもとづいて、彼はパロールに対するエクリチュールの優越性を指摘する。というのも、後者が前者の代理物だったとしても、そもそも、言語とははじめから代理物だからである。「それゆえ問題なのは、固有の意味と比喩的意味とを逆転させることではなく、エクリチュールの「固有の」意味を隠喩性そのものとして想定することであろう」(同書)。それによって、彼は意味の解体を、そして言語そのものの解体を目論むことができる。意味が、なにものかの隠喩――というより「隠喩性」そのもののうちに溶解するなら、言語は指示対象を失い戯れのなかにしか存在することができなくなる。根源としての痕跡は、同時に、根源なき、しかし原初的な(つまり根源としての傷を欠いた、そうであるがゆえに傷そのものからは自由となった――とはいっても痕跡の指示する範囲からは逃れられないという点で痕跡は結局根源そのものである)戯れを可能にするからである。

この観点は、ある程度まで正しいが、同程度、誤っている可能性がある。正しい、というのは、方便(レトリック)としてそういう言語観が妥当する場面は実生活上は多々ある、という意味である。しかし、原理的にはおそらくたいていの場合に正しくない。言語が隠喩であるという観点は、そもそも言語がその指示対象そのものではなく、しかもなんらかのつながりをもっている場合に限定される。しかし、言語が隠喩性のうちに溶解して対象とのかかわりを失うと、逆に隠喩という観点そのものが成り立たなくなる。デリダがそうしたように、われわれは、たとえば人体や草や動物や鉱物などと同様に、言語そのものを対象にすることができる。言語は、その他の感覚的な表象と同様に、われわれを喜ばせたり悲しませたりし、またたとえばロープのように対象を死に追いやったり死から救ったりすることもできる。その点では、言語に、その他の対象と異なる「隠喩」という特権を与える必要はない。われわれとあまりに近すぎる物体――たとえば眼球――が目に見えないのと同様に、言語はわれわれの肉体とあまりに近すぎるために隠れてしまう――つまり隠喩となってしまうと考えることは不可能ではない。というか、眼球同様、言葉は《見えすぎている》だけであり、別に隠れているのではないかもしれない。その点で、言語にだけ、その他の自然現象とは異なる奇怪な特権性を与えるのは早計である。

ソクラテスはこう言っている。

「…しかし先ず、われわれはある出来事に襲われないように気をつけよう」とあの方は言われました。
「どんな出来事でしょうか」と私は訊ねました。
「言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。ちょうど、ある人々が人間嫌いになるように。というのは、言論を嫌うよりもより大きな災いを人が蒙ることはありえないからである。言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる。つまり、人間嫌いが人の心に忍び込むのは、心得もなしにある人を盲信し、その人がまったく真実で健全で信頼に値すると考えた後に、しばらく経ってからその当の人が性悪で信頼に値しないことを発見することから始まる。他の人についても、再び同じ経験をする。こういうことを人が何度も蒙ると、とりわけ、それまでもっとも近しくもっとも親しいと考えていた人々によってこのような仕打ちを受けると、遂には度重なる怒りの果てにすべての人を憎むようになり、どんな人にもいかなる健全さもまったくない、と考えるようになるのだ。…」
「…人が言論についての心得もなしに、ある言論を真実であると信じ込み、それからわずか後になって、それを偽りであると思うようなときに――本当にそうである場合もそうでない場合もあるだろうが――そして、再び他の言論についてそのような経験をくり返すときに、言論と人間は似ているのだ。とくに矛盾対立論法にたずさわって時を過ごしている連中は、君も知ってのとおり、ついには最高の賢者になったつもりになり、自分たちだけが真理を見抜いた、と思い込んでいるのである。すなわち、およそ事物についても言論についてもなにも健全で確実なものは存在せず、すべてのものは、あたかもエウリポスの流れの中にあるかのように、かなたこなたへと変転し、片時もいかなるところにも留まることがないのだ、と」

『パイドン』(岩田靖夫訳)

デリダとソクラテス、言語に対する二つの思考法のどちらが正しいか、俄には判断し難いが、いずれにしても、これらの観点がずいぶん異なっていることだけはたしかである。言語と対象のつながりを完全に切断したデリダ。そんなことはないというソクラテス。言語が真実を述べている場合、言語はそれにもかかわらず隠喩であるというべきなのだろうか。それとも、言語が真実を述べているなら、言語もまた真実なのだろうか。言語が真実であることを信じきっていた人間が裏切られて逆の立場――すなわち言論嫌いに陥る、というソクラテスの主張は、ある出来事を想起させずにはおかない。それは、近代における二つの潮流、実証主義と言語論的転回である。近代において、科学が真理に到達するという確信が実証主義をもたらし、その挫折が言語論的転回をもたらしたことは、記憶に新しい。ソクラテスの発言はそのことの予言でもある。

さらにソクラテスはこう言葉をつなげる。

「言論にはなにも健全なものはないかもしれない、という考えが心の中に忍び込むのを許さないようにしようではないか。むしろ、われわれ自身がいまだ健全ではない、という考えをもっと受け入れることにしよう。そして、健全であるべく勇気をふるって努力しなければならない。君やその他の人々はこれから先の全生涯のために、僕は死そのもののためにね。…」

同前

つまり、言論が往々にして対象と関係しないからといって、その本質を《隠喩性》のうちに解消するのではなく、たんに、われわれが言語をうまく使えていないだけかもしれない、と考えるようにしよう、というわけである。もちろん、わたしはデリダよりソクラテスの発言を好む。同じ国語にかぎっても、言語を完全に使いこなせる人間など滅多にいない。矢が的中しないからといって、矢の本質を的中しないことに置くのがおかしいことは、誰でもわかる。自分が下手な射手だと考えるのがふつうだろう。「ライオン」という言葉がライオンそのものではないからといって、「ライオン」がライオンの隠喩だと考えるのは、矢が的そのものではないから矢は的の隠喩だと考えることと同じくらい、おかしなことである。逆にいえば、言語とは本質的に比喩である(=的に当たらない、あるいは的ではない)、というような発言は、言語について相当の努力を払ってきた人間だけが、なんとか許される謙遜やユーモアであって、デリダならまだしも、わたしに許されるはずもない。「サッカーとは点が入らないものだ」、という言い方は比喩としては許される(し、その発言者がたとえばリオネル・メッシのようなプレイヤーならなおさらだ)が、現実にはそんなことはないように、「言葉とは本質的に隠喩である」、というような発言は、それ自体が、言葉がじつは隠喩ではないことの隠喩である。そうはいっても、言葉が真理を射抜く場面は、いたるところに転がっている。少ないとはいってもサッカーにはゴールシーンがある。「言葉とは隠喩である」という発言をしたのが、全身全霊を賭けて言語に挑んだ小説家ならまだ納得するが、批評家や駆け出しの小説家が、それがさも真実であるかのように言うべき言葉ではないはずだろう。

いくらか蛮勇を奮って、すこしこの議論を先まで進めてみよう。

言語そのものを言語の対象とするいわゆる「自己参照」は、粒子と場の自己相互作用と同じように、必ず無限ループに陥る。この無限ループは対象との不一致を主体の側に引き起こさないわけにはいかない。この不一致こそが精神(主体)と呼ばれるものである。普通は、精神が同時にこの不一致を引き受けることで(つまり精神とは自己相互作用に対するマイナスの相互作用だと考える)、これを解消する。しかしこの不一致が精神に引き受けられないほど巨大になる場合がある。というより、無限ループによって生み出された精神自身が、上記の解決法を拒絶する場合がある(拒絶こそ治癒だと誤解されるのだ)。このとき、ひとは、それを精神病と呼んで医者の治療に委ねるか、あるいは歴史に委ねるという他力本願的な方法を取る。後者の場合にあらわれるのが《民族nation》である。この無限ループは、原理的には、対象の側が有限である以上、それを生み出した自分(精神)の側にしか解決できる可能性がない(医者に頼ったとしても、結局精神病を治すのは自分自身である)。したがって、「自分」を拡張しなければならなくなる。拡張した「自分」、すなわち民族である。たとえば「わたしは日本人である」ということが成立するなら、問題なく、この無限ループは日本人に委ねることができる。

こうしたナショナリズムを非難しようと思えば、ひとつは、言語と言語のあいだに生じる無限ループ、要するに観察する自己と対象としての自己との不一致を、《差異》として受け容れることである。これがデリダの解決方法であり、彼はこれをとくに「差延」という。それは、この無限ループを解決しないことであり、そうした態度のことを、彼は言語学的な言い方をして《隠喩性》といっているわけである。傷ではなく痕跡に留まることが、もっとも正しいひとのあり方だと言いたいのだろう。かくして、知は「エウリポスの流れ」(アリストテレスは予測不能のこの海峡の流れに身を投げて自殺したという伝説がある)のなか、差異の戯れのなかに埋没した――これが、悪い意味でのポストモダンといわれるものであろう。というのも、この態度は、無限ループの解決ではなく、つねに‐すでにひとが行なっている無限ループを増大させることにしか貢献しないからである(だから可笑しなことだが、デリダ自身が差延とは両義的なものだと言っていた)。

さて、近代以前のひとびとは、対象としての自己と、対象を眺める自己との不一致が引き起こす無限ループを、どうやって解消してきたのか。当然、《神》が推測される。現代人ならば御存知のとおり、《神》は人間が生み出したものである。したがって、この場合でも、結局は自己解決である。無限の精神が、無限ループを引き受けるわけである。しかし、ソクラテスの態度を見ていると、もうひとつの解決方法があるように思われる。すなわち、たんにその無限ループを引き受けるにたるだけの精神的成長を遂げることである。《わたしは狂気を受け容れる》……本当の作家は狂気を伴侶としている。狂気――すなわち無限ループを、自分自身の精神で引き受けるのだ。にもかかわらず、あるいはそうであるがゆえにこそ、この作家は健康である。医者や歴史や神に狂気を委ねるのではなく、未来の自分に委ねること――それをニーチェは、超人といったと、わたしは思う。

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