芸術のエチカ――欲望中心の表象の強さについて

criticism
2010.05.22

欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を奪ってしまう。別にその表象は生身の人間である必要はない。なにかしら異性を思わせるシンボルがあるだけで充分である。というよりは、その欲望中心のシンボルの抽象性が高ければ高いほど、かえって視線を誘う。なにしろ「欲望」は、表象をもたない。だから抽象的だが、同時に、欲望ほど具体性に恋い焦がれているものもない。この抽象的なシンボルは、次の瞬間には具体物であるかもしれない。そう思わせるだけで、ひとの視線は奪われ、このシンボルに吸い付けられてしまう。

たとえば昨今のアニメや漫画で描かれる人物は、それはいじらしい。なぜなら、彼らは人間になろうとしているからだ。抽象性から具体性へと至るプロセスの中心で、いまだ胚といってもよい状態のまま、奇妙に凍結され、宙づりになってこちらを見つめている。この欲望中心の表象の力強さは驚くほどだ。かつて泉鏡花が自然主義文学について言ったように、十の精神でさえ、一の肉に勝てない。もし、芸術があるかないかもわからぬ精神の領域を占めているとすれば、肉に依拠し、覇権主義的で帝国主義的なこの「サブカルチャー」の力には、ほとんど歯が立たない。

それは、中世ヨーロッパの芸術が、ついに古代ギリシア・ローマの芸術に勝てなかったことにもよく現われている。それは、宗教が欲望に勝てないことと同義である。かつて白樺派のひとたちは、内村鑑三の洗礼を受けながら、ほとばしる欲望についに勝てなかった。「自分は女に飢えている」と語ることから文学を始めた。だからこそ、この芸術は強い。魂に禁欲を強い、その禁忌がもたらす崇高に軸足を置く宗教的な芸術が、欲望中心の芸術に勝てなかったことは、歴史がよく示している。

古典時代とは、欲望中心の時代の謂いである。ソクラテスの言葉は、ギリシア人が、知とエロスとを同じ高さに並べることに、なんの抵抗も感じないのでなければ、すこしも説得的ではない。ソクラテスは美に畏敬を抱かぬひとを「快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしない」と言って非難する。とはいえ禁欲を説くわけではまったくない。彼は美に出会い、恋に狂った人間が陥る〈好ましい〉例を、次のように語る。

聖像や神に対するごとくに、彼はその愛人にいけにえを捧げることであろう。…その姿を見つめているうちに、あたかも悪寒の後に起こるような一つの反作用がやってきて、異常な汗と熱とが彼をとらえる。それは、彼が美の流れを――翼にうるおいを与える美の流れを――眼を通して受け入れたために、熱くなったからにほかならない。そしてこの熱によって、翼が生え出てくるべきところがとかされる。…いまや養分がつぎこまれると、翼の軸は膨れ、その根から、魂の姿の全体を蔽うまでに成長しようとする躍動をはじめる。

…かくして、このような状態のとき、魂の全体は、熱っぽく沸きたち、はげしく鼓動する。それはちょうど、歯が生えはじめたばかりのとき、人々の歯のまわりに感じるあの状態――歯ぐきのところに感じるむずがゆさといら立ち――あれと同じ感覚なのだ。翼が生えかけている人の魂は、まさにそれと同じ経験を味わい、翼が生じるにあたって、熱っぽく沸きたち、いらいらし、うずくものを感じる。そこで、この魂が、少年にそなわる美をまのあたりに見つめながら、そこから流れてやってくる粒子を――このように粒子(メレー)の流れ(ロエー)の放射(ヒーエナイ)であるがゆえに、それは「愛の情念」(ヒーメロス)と呼ばれるのであるが――この愛の情念を受け入れて、うるおいを与えられ、熱くなるときは、魂はそのもだえから救われて、よろこびにみたされることになる。

プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫

この言葉が、性的な欲望がいかに表現(発現)されるべきかをリアルに示すものであるのはあきらかである。ここでのソクラテスの言葉は、それ自体が欲望の表現(発現)であることに注意しておこう。つまり、この言葉は、それによって「意味されるもの」を想起させようとしているのではない。美は、「四つ足の動物の行う交尾」として《表現》されるのではなく、「翼をもった魂の潤いのほとばしり」として《表現》されなければならない。なぜなら、ひとを惹き付ける美とは、対象そのものではなく、対象が抱かせる期待、すなわち《距離》によってこそ、美だからである。安易に対象と同化するよりも、「翼」によって表現される対象との《距離》が、ひとをして欲望の虜にするのであり、この同化に至る《距離》こそが、美であると同時に表現であると言いたいのである。要するに、ソクラテスは全然欲望を否定していない。欲望を描くとは、四つ足の獣のように即席の同一化を与えることではないし――これをポルノと呼ぼう――、そうした即席の快楽は、ほとんどここちよさを与えない。それは、結合の瞬間、絶頂の瞬間が、それまで感じていた《美》などどうでもよくなっていることによって説明される。むしろ、結合にいたるプロセス、絶頂の途上で感じられる埋めがたい距離のすべてが、美であり欲望であり快楽なのである。芸術の中心はここにある。

男は手淫し、女は想像で妊娠する。われわれは、それを「抽象的」と言ったり、「観念的」と言ったりする。それはけっして虚構ではない。なぜなら、自然は、それによって実際に欲望を満足させるようにひとを作ったからである。犬のディオゲネスは人のみている広場で自慰に耽りながら言った。「ああ、お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえすれば満足できるならいいのになあ」。しかし、これは不思議なことなのだ。遺伝子が死を超えて残ること――作られた子供については、欲望はこの際関係しないらしい。手淫は観念的だ、などと言ったところで、これが現実に行われていることを否定することはできない。芸術は、虚構というよりは、こうした奇妙な《現実》にかかわっている。つまり対象それ自体とかかわるよりは、対象への意志とかかわる。欲望は、対象の直前で立ち止まる、いわば手淫や想像妊娠なのだ。それを表象するのが古典芸術だとするなら、アニメや漫画は、対象を人間未然のなにかとして、しかも人間になろうとするその《距離》として描いているという点で、無自覚に古典芸術と同じ地平に立っている。その意味では、サブカルチャーとメインカルチャーを区別する必要はほとんどない。純文学であろうが、漫画であろうが、それらが宗教的ではない動機、すなわち欲望の屈折なき放射であるかぎり、芸術の最初の門をくぐったものと考える(その点、コンセプチュアル・アートは古典芸術とはまったく無関係である)。問題は質ではなく強度である。

欲望が快楽そのものというよりは快楽の遅延なのだとすれば、その表現は驚くほど複雑化する。なるほど快楽は一に基礎を置く。だが、欲望は多に基礎を置いている。したがって、肉を晒すことは快楽へ至る最初の一歩だとしても、欲望にとっては多様な道のひとつにすぎない。中世の宗教芸術から一線を画すルネサンス期、レオナルドは、「教会は血を忌む」といって遠ざけられていた人体解剖に興味を示している。したがって、解剖学的な欲望は、中世を卒業する芸術の最初の動機の一つであると考えられる。だが、解剖学だけですべてが解決するわけではないし、欲望が静まるわけでもない。むしろ欲望は、ポルノに至らぬぎりぎりのところでとどまることを欲しているし、その点からいえば、じつは欲望はポルノを拒絶している。

たとえばゴダールは、『映画史』のなかで、浴槽のジュリー・デルピーとポルノビデオを対比している。彼は言いたいのだ、どちらがひとを欲情させるのか、また同時に、同じことだがどちらが美しいのか、と。むろん、ジュリー・デルピーよりポルノビデオに軍配を上げるひとも多いだろう。強度を問わず、ただ快楽にたどりつけばいいというのなら、ほとんどのひとがそうだろう。ゴダールが言いたいのは、映画はポルノビデオと勝負し、あるいはもっとおぞましい薬物とさえ勝負し、それに勝つことを夢見ている、ということだ。今日では、純文学とポルノ小説の差異はほとんどなくなっている。作家たちのあいだで、欲望と快楽とが混同されているからである(はっきりいって、純文学と称する昨今の代物はほぼすべてポルノである)。こうしてポルノを政治的に法で囲い込むより手段がなくなっていくのだが、本当の芸術は、結局、ポルノを法で囲い込むよりも、勝つことを夢見ている。芸術も子供を作ることができると言いたいのだ。

しかし、芸術がポルノに陥ることなく、美や欲望、快楽を《距離》によって表現することを仕事としているなら、アニメや漫画は、本質的にポルノに近すぎるのではないだろうか。ある女性の声、肉体、精神、そしてその生涯を、つまりこの女性の美を一枚の絵画におさめることができたなら、余計なものはいらないはずだ。ただ言葉だけで女性の美しさを表現できたとすれば、やはりもう余計なものはいらない。すでに美であるそれらに加えられた補助線は、快楽を不必要に近づけ、かえって快楽を小さくするポルノにかぎりなく近づいていく。アニメや漫画の補助線は、あまりに親切で、説明的で、こちら側の呼びかけを無視して進むがゆえに、かえって戸惑う。人間は、たった一本の線にでさえ、欲情することができる。この線がついに美につながるとすれば、そのときの快楽はほとんど極大に達しよう。芸術が究極的にはシンプルな形式を求めるのは、その方が複雑な快楽に達する可能性をもつ場合が多いからである。ただ一枚の絵画、言葉だけで描かれたストーリーこそ、アニメや漫画の目指すところではないのか、という疑念を払うことは、なかなかできない。

老いの手前にとどまる若さや、目的を達しようとそれに打ち込む姿は美しい。それは、あらゆる芸術上の登場人物が、人間の手前で人間たらんとリアリティを求める姿と重なりあう(たぶん、美はある種の期待であり、美的な知はある種の予言であろう)。結局、芸術は、つぎの問いをつきつけている。人間が美しいとすれば、それはなんによってか、と。己を超えたものを欲することによってではないのか、と。しかし芸術は、だからといって神を選べとは言わない。というのも、それは欲望を屈折させ、たどりつくことのできない統整的なものとして目標を提示するからである。だからこそニーチェは「超人」といった。芸術は、人間を超えたものを宗教に依らずに提示しなければならない。つねに大人になることを目指している子供は、その比喩である。

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