正論と懐疑のあいだで

criticism
2011.04.03

正論を吐くことで政治的に極端な立場を表明しているようにみえることは、たしかにある。それ以上に、正論には権力的な響きがある。1に1を足せばたしかに2になるだろう。だが、その正論さえ権力的に聞こえる。煩(うるさ)いといいたくなる。だから言葉が必要になる。つまり正論は、じつのところ言葉ではないのだ。

もうすこし説明してみよう。同じように、ただ懐疑を表明しているだけでは、言葉にはならない。というのも、懐疑とは、究極的に言葉に対する懐疑であって、懐疑はひとに沈黙を強要するからだ。正論が言葉でないのも、同様に、自身の大騒ぎと引き換えに、聞き手に沈黙を強いるからである。1+1=2、という数式は、これ以上の発言を許さぬ強さがあるが、そのかぎりで、正論はやはり、言葉ではないのである。人間にとって言葉とは、いつも言い足りないか言い過ぎているかしているのであり、またそのことが、人間に喜びと悲しみをもたらすひとつの持続をもたらしているのである。だから言葉は、正論と懐疑のあいだにある、としか言えぬものなのだ。

言葉に対する嫌悪や懐疑も、他人の発言を封じる正論や断言も、言葉とはいえない。断言や懐疑が必要なときはたしかにある。だが、それは沈黙をおしゃべりのアクセントとして必要とする場合だけである。言葉はおそらく、断言と懐疑とによっては掴むことができないはずだ。言葉はあくまで、断言と懐疑、喧噪と沈黙、その両者を含まぬあいだにある。

さて考えてみれば、ひとが正論を吐いているときでさえ、実際には正論など吐いていない。言葉に対する懐疑を表明しているときさえ、ほんとうのところはそれを語るための言葉を必要としている。つまり、わたしと彼らのあいだに滞留している厄介な権力を取り除いてみれば、彼は彼だけの意見を話しているにすぎない。しかしだからこそ、それは聞くに値する意見なのだ。ひとは正論など吐かない。言葉を疑っているときでさえ、言葉を信じている。正論や懐疑を超えて彼の意見を聞くために、わたしは自分の耳を鍛えようと思う。

さて、日本人はおそらくほとんど買い占めなど行なわない。しかし、こういうときだから一本だけ水を買おうかしらと、誰もが同じように思っているのが日本人である。結果として、やはり日本人は買い占めを行なう、ということになってしまう。日本のナショナリズムはこのような形で瀰漫している。

日本に瀰漫している無意識の同質性、要するにナショナリズムに対して、さらに言説でナショナリズムを上塗りするようなことを行なえば、それは面倒なことになる。わたしはそれが鬱陶しくて仕方がない。

誰もそうせよと言わないのに全体主義的に自粛し、寄付し、水を買う。誰もがやるから自粛する。寄付する。水を買う。そのうち国民は寄付に疲れて一律で増税でもしてくれと言い出すのではないか。

なぜあなたは空調のスイッチを入れたのか。隣の住人が入れたからだ。なぜあなたはコーヒーを頼んだのか。隣席の客がコーヒーを飲んでいるからだ。しかし、こういうひとびとには国家など必要ないのではないか。われわれこそ革命の可能性を持っているのではないか。

自発的に行なう、とはいったいどういう状態を指して言われるのか。意志する、とはいったいどういう状態を指して言われるのか。意見の相違が全体として均衡をもたらし、なにも起こらないのだとすれば、同質の意見を集めて均衡を崩すことは意志するということになりはしないか。……

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