フリージャーナリストを讃える

criticism
2011.02.19

文学はどこへ行ったのか。文学はまったくの無に帰してしまうものなのか、それとも永遠につづいていくのかはわからない。わかっていることは、消えて生まれるもの、ということだ。滅び、そして誕生する、それが文学である。文学は、おのれが滅ぶことを知っている。だがそれを《終わり》であるとは感じていない。またこの世に生まれるために、しばしの眠りにつくだけだと、そう思っている。

あるいはこう考えてもいい。文学とは、ひとつの妖精である。妖精はたえずどこかに潜んでいて、われわれに関心をもったり、もたなかったりしている。彼女たちが関心をもてば、そこが止まり木になる。人間が止まり木に選ばれたときにだけ、ひとは文学に与ることができる。したがって文学は妖精と語らうこと、すなわち狂気を必要としている。

文学は、どこにでも宿るというものではない。おのれが消え去ることを知っている者のうちにだけ、宿る可能性がある(かならず宿るというわけではない)。消え去る者たちは、前に進んでいく者たちだ。後ろ(過去)を振り返らない。振り返らぬことによって、後ろは意味を変える。後ろ(未来)に控えているひとたちのためにも、前に進むべきだと考えているような、そういうひとたちが、消え去る者たちである。消え去る者たちは、今を超えていく。今のおのれを超えるべきひとつのハードルとみなす。

存在論的な証を求めるひとのもとには、文学が宿ることはない。歴史が宿ることはあるとしても。文学者にとって、歴史は存在論的な証というより、通行証である。今を通り過ぎてしまえば、同じ通行証は必要がなくなる。同じ通行証はもう通用しない。

文学は、ひとが「文学」と認めているものにだけ宿るのではない。文学が「文学」に十分な器を見出さなければ、文学は別のものに宿る。隆盛の時代には知に宿り、衰弱の時代には笑いに宿る。渾沌の時代には政治に宿り、滅びの時代には、滅びのうちに宿る。

進歩の風が凪いでしまうと、前に進むことができるひとは、ほんのわずかになる。おのれ自身をおのれの推進力のために捧げることのできる人間だけが、前に進むことができる。つまり、なにものにも属さず、自己発火できる人間。この人間には文学がある。

そこでわたしは、掛け値なしに真っ直ぐに、フリージャーナリストたちを讃える。彼らは前に進もうとしている。文学が彼らを選んで停まったことはなんら意外ではない。彼らは存在論的な証をもたず、自分で作った通行証だけをもっている。あるいはなにも持っていない。おのれの名前を言葉に結びつけ、言葉のうちに生成し、今ここにいるおのれの存在を消し去ろうと躍起になる。フリーではないジャーナリストたちが、客観性という企業名のうちにおのれの存在を温存し、隠すことによって存在論的な証を得ているのとは、まったく正反対の行き方である。

フリージャーナリストたちは、いつも言葉に、《誰がそれを言っているのか》という問いを付け加えて歩くひとたちである。そのことを隠しているような言葉は信用が置けないということを示すために、彼らは客観性の崩壊も恐れず、言葉に名前を付け加える。要するに、世間に認められていない彼らはとにかく名前を売りたいのだ。名前を売ることによって、存在が言葉のなかに消えてしまうし、それでかまわないと思っている。わたしたちは、彼らのおかげで、《誰?》という、久方ぶりに問われた問いを聞くことができた。彼らはこの問いによって、おのれを自己発火させる不思議なサイクルに巻き込む術を知っている。

ジャーナリズムは、つねに堕落と隣り合わせである。彼らが求める客観的事実は、おのれを乗り越えるためにおのれを鍛えることを疎かにさせるからである。客観的であるために、おのれの主観を鍛えず放置し、結果、温存する。真理はいつも、おのれによって致命的に歪んでいるのに、おのれを隠すことで紛いものの真理、すなわち事実をひとに提供する。彼らはかりそめの真理、事実に隠れて生きる。否、生きるのではない。存在することではあれ、生きることではない。

ジャーナリズムがおのれと同じ資格のまま活動できることはほとんどない。客観的事実と結びつかざるをえないジャーナリズムは、いずれおのれを邪魔者扱いはじめるだろう。ひとは事実(情報)のためにもっと中立な言葉を求めていると勘違いして、存在ではなく名前を消すことに躍起になる。名を名乗らぬことによって存在を温存する。つまり、《誰》という問いをうやむやにし、禁じてしまう。だからいつかは、ジャーナリストたちは、文学という「美しい危険」(ソクラテス)に身をさらして飛び立たねばならない。しかし妖精たちは、おそらくこう思ったにちがいないのだ。あなたたちならば、飛び立つことができるかもしれない、と。

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1 Comment

  • 野上 亨介

    2011年2月20日(日) at 12:33:53 [E-MAIL] _

    文学はpops(J-pop)が代用し、それと変換可能な限りにおいて、下位的なものに押しやられてしまう、というのがおおきな見解です。(小説と文学を混同させるのに都合のいいメディア?ポップス)

    ウェブログという形態が蔓延すればするほどジャーナリストに関する言説も希薄化するのでしょうか 盲点は反復し盲点をアウフヘーベンすることは 重要だとは思います

     

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