オクシデンタリズム(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ2)

criticism
2010.03.20

ユークリッド(エウクレイデス)の第五公準、いわゆる平行線の公準は破られて久しい。この事態を文学的に翻訳するなら、それは、〈平行線は交わる〉ということである。第五公準とは次のようなものであった。

二つの直線が第三の直線と相交わって、その同じ側に、その和が二直線よりも小さい内角をつくるならば、それらの二直線は、それらを限りなく延長するとき、その内角のある側において必ず相交わる。
Κα? ??ν ε?ς δ?ο ε?θε?ας ε?θε?α ?μπ?πτουσα τ?ς ?ντ?ς κα? ?π? τ? α?τ? μ?ρη γων?ας δ?ο ?ρθ?ν ?λ?σσονας ποι?, ?κβαλλομ?νας τ?ς δ?ο ε?θε?ας ?π? ?πειρον συμπ?πτειν, ?φ? ? μ?ρη ε?σ?ν α? τ?ν δ?ο ?ρθ?ν ?λ?σσονες.

ユークリッド『原論』

ややこしい書き方になっているが、要は、平行線は交わらない、という意味である。ほかの四つの公準(二点を結ぶ直線を引くことができる/線分は延長することができる/あたえられた点を中心とし、あたえられた半径をもって円を描くことができる/直角はすべて相等しい)をみればわかるとおり、第五公準は異様に複雑である。五世紀のプロクロスをはじめとして、公準の証明はたびたび行なわれてきたが、この第五公準だけは、ついに証明することができなかった。証明に成功したと信じたひともなかにはいたが、奇妙なことに、それらはすべてどこかでまちがっていた。イスラムからルネッサンスを経て、この公準は《一直線の外にある一点を通って、もとの直線に平行な直線を一本しか引くことができない》という形に洗練されたが、だからといってこれで証明されるわけでもない。ユークリッドの第五公準は、誕生以来二千年にわたって、それに関わろうとするひとびとを苦しめることになった。

結局、この第五公準が《証明》の対象ではないことがはっきりしたのは、一九世紀のことである。ロバチェフスキーは、洗練された第五公準、すなわち《一直線の外にある一点を通って、もとの直線に平行な直線を一本しか引くことができない》を、《何本でも引ける》という風にアレンジしてもなんら問題が発生しないことに気づいた。誤解が生じる可能性があるが、話を簡単にするために、二つの開口をもつ漏斗状の世界を考えてみよう。この世界において引かれたいくつかの線は、交わる寸前で世界の外に飛び出してしまうだろう。〈世界の外〉に線分を逃がしてしまえば、平行線は、いくらでも引ける。あるいはリーマンのように考えてみてもいい。彼は第五公準を次のようにアレンジした。《一直線の外にある一点を通って、もとの直線に平行な直線を一本も引くことができない》。球面状に広がった世界を考えてみよう。ここでは地球を例にとるのがいいだろう。地球に引かれた経線は、一見平行であるにもかかわらず、北極と南極で必ず交わってしまう。つまり平行線を引くことはできない――あるいは、〈平行線は交わってしまう〉。

これらユークリッドから離れた幾何学を、わたしたちはたんに非ユークリッド幾何学と総称しているが、どれかが特権的に正しい、というわけではない。証明の観点からいえば、依然として、ユークリッドが正しい可能性も残っている。世界に歪がなく、完全に均質な平面的空間だったとしたら、彼が正しかったことになる。世界=神は球体であると考えたのは、大きなスパンでみればユークリッドとほぼ同時代のプラトンだったが、いずれにしても、彼らは各々自らの世界観(一本だけ平行線が引ける世界、何本も引ける世界、一本も引けない世界)で幾何学を語っているわけである。いってみれば――文学的に翻訳すれば――、幾何学中の第五公準とは、真理=ロゴスのなかに混じった、神話=ミュートスだったのである(歴史学の用語法に従えば、第五公準は、真理を扱う《歴史》のなかに入り混じった、《物語》である)。世界には、さまざまな世界創生の神話があるように、幾何学の世界にも、さまざまな世界創生の神話がありうる。このミュートスのなかで、ロゴスは成立している。わたしたちは、特段ロゴスを放棄することなく、というかむしろロゴスの審級を捨て去らないかぎりで、思い思いのミュートス=世界論を描くことができる。

さて、わたしが蛮勇を奮って、しかも時間の都合で急ぎ足に幾何学の話をしたのは、自著『精神の歴史』で述べたオクシデンタリズムを直観的に説明するためである。この書物の第一章は近世の蘭学、とりわけ解剖学をあつかう。わたしのみたところ、この奇妙なオクシデンタリズムが切り拓いたのは、特異な表象論であったように思われる。それは、エドワード・サイードが批判的にとりあげたオリエンタリズムを、二重に逆転させる試みでもある(つまりわたしはサイードを反批判している)。サイードにとって、西洋と東洋の非対称的な視線がつくりあげた「どこにもない場所」としてのオリエントが非難の対象だったとするなら、東洋の一島国にすぎない日本人が勝手に作り上げたオクシデンタリズムもまた、どこにもない場所――エレフォンerewhon(nowhereを逆転させたサミュエル・バトラーの概念)についての学問である。やや品のない例を出せば、動物園の動物は、やってきた人間を奇妙な動物のように眺めているものだが、それとある程度は同じことで、同時代の東洋人が一方的に西洋から〈見られていた〉と考えるのも穏やかではない。彼らは彼らで、したたかに、西洋を眺めていたし、その視線が作り出した《オクシデント》は、どこにもない場所であったがゆえに、真の創造性を――つまり《文学》を生み出す可能性をもったのではないか。

といっても、同書では、本論からはずれるため、サイードの議論そのものの批判は若干匂わせたにすぎない(サイードはあまり批判したくなかった、というのも大きな理由のひとつである)。重要なことは、オクシデンタリズムがもたらす特異な表象論/言語論のほうである。《表象》という思考は、今日ではかならずリプレゼンテーションRepresentationとかかわりをもち、したがってカントとかかわりをもつ。つまり、物自体とその表象という一組の概念を考え、表象を存在(Presence)の再‐現前化(Re-present)として把握する思考法である。カントにおいて、物自体は不可知である。というか、考えることしかできない。感覚できるのは表象だけであって、感性的自然において、物と表象は、ついに完全には一致しない。

この思考法のポイントは、物自体の存在が証明できるか否かである。しかし、そのためにわたしたちに与えられた材料は表象だけである。表象と物自体が交わることがない以上、証明はどうやっても不可能である。というのも、存在として証明された(≒感覚的に明らかになった)物自体は、原理上、すでに表象にすぎないからだ。だから誰もカントの物自体の存在を証明しようとするひとはいない。〈不可知の〉物自体の存在を証明できた時点で背理だからである。物自体と表象は、ついに交わらない――つまり、これは一種の《平行線公理》である。すなわち、〈カントの作り出したミュートスである〉。

カントの表象論は、証明不能の第五公理とでもいうべき、《不可知の物自体》というミュートスのうえに成立している。この神話なくして、彼の理性(ロゴス)――超越論的統覚はありえない。したがって、ロバチェフスキーやリーマンがやったように、わたしたちには、カントの構想した(想像/創造した)世界とは別種の世界を構想する(想像/創造する)権利がある。たとえばロバチェフスキーのように、ある表象に対して、ただひとつの物自体ではなく、無数の物自体が想定できるとすればどうか。そうすれば、物自体を特権視することはできなくなる。最初の表象でさえ、もうひとつの物自体かもしれず、かえって物自体を立てる必要がなくなる。あるいはリーマンのように、すべての表象がどこかで物自体と交わってしまうとすればどうか。そうなると、物自体はのっけから存在できなくなるだろう。物自体だと考えていたものも、結局はまた別種の表象なのだ。証明不能の物自体を仮定する世界がありうるのだとすれば、また逆にすべてが表象であると仮定する世界――つまりわたしたちはいたずらに感覚的な世界を疑う必要はない――もまた許されるのではないだろうか。いまでは、リプレゼンテーションの論理は、あまりにも強く一般に流布してしまった。だが、わたしたちには、この論理が暗黙のうちに想定している平行線公理を疑う権利がある。この暗黙の平行線公理とは別の場所に、「精神の歴史」は軸足を置いて展開される。

これまで、近世の思想といえば、儒学から発展した国学が扱われるのが主流であった。というのも、この思想は、「大東亜戦争」に結実するナショナリズムの原形と考えられたからである。近世の蘭学――つまりオクシデンタリズムは、依然として実学的に意義付けられているにすぎないし、日本の地理的条件においてはよく起こる外来思想とその享受の一事例と考えられるのが主である。だが、オクシデンタリズムの批判対象は当時支配的だった儒学や国学である。そして当時の蘭学から文明論への流れを普通に読み解く限り、この思想こそが、明治維新を内から準備した、という風に考えることは不可能ではないはずである。だとするなら、オクシデンタリズムは、たんなる実学ではなく、もっとラディカルな意義をもったものとして、再把握されねばならない。そうしてはじめて、わたしたちは幕末から明治へのエポック――すなわち激動を、それ自体として把握する権利を得るのではないか。

繰り返すが、オクシデンタリズムの批判対象は儒学である。江戸時代の儒学は、本場中国と同様、基本的に理気二元論である。いずれを重視するかによって違いはあるにせよ、人間あるいは世界を、形而上的な「理」と、形而下的な「気」にわけて説明する考え方である。こうした二重構造は、原理的に、儒学そのものがもっている学問上のスタイルと切り離し難い。というのも、儒学は、原則的に孔子のテクストの読解がその中心である。つまり文献学である。この種の学は、かならず次のような問題に直面する。テクストから遡って孔子像を復原することは許されるのか、それともテクストそのものを重視すべきなのか。「理」と「気」の概念をここに適用すれば、前者が「理」であり、後者が「気」である。後者を重視した陽明学はすでに実証主義の可能性を胚胎しているが、カントほどの厳密性はないため、曖昧であるがゆえの別種の可能性を有すと同時に、実証主義のさらなる進展を阻む傾向もあって、議論が無闇に錯綜する。だが、いずれを重視するにしても、ひとつの共通点がある。それは、「理」や「気」は目に見える表象とは異なるという観点である。「理」は目に見えない原理的な孔子像を重視し、「気」はテクストのなかに隠された意味を重視する。ここからきわめて儒学的な主題である名分論と徳治主義が生まれる。君主が世界を統治する権利をもっているのは、彼が徳をもっているからである。しかし、現実の政治的行為をもって君主の徳を云々することはできない。というのも、原理的に君主はただひとりであるが、君主でない人間は君主が徳をもっているかどうかを判断する力をもたないからである。君主以外の人間は、その徳性を判断できない、そのことをもって、原理上ただひとりの君主は自動的に徳をもつと判断される……。ここでは名分論のトリックを非難することが目的ではない。むしろ、このトリックを秩序だてている知の基準(公準)はなにかと問わねばならない。名分論が可能であるためには、最低限、次の点に同意が必要である――すなわち、孔子のテクストの読解が真の孔子の考えに近似はしてもたどりつくことがないように、表象(現実の君主の見かけ)と真理(君主が内面にもっている《心/理/性/徳》)とは別々の場所をもっている……。

この時期の儒学的身体論もまた、同様の傾向をもつ。よく知られているように、漢方医学は目に見えない気とそれが通る経絡を重視する。こうした漢方医学的な傾向に反対して、西洋の流れとは別に独自に解剖も行なわれたが、それに対する反論をみておくことが、当時の身体論の傾向を理解するには手っ取り早いだろう。

夫れ蔵の蔵たる、形象の謂に非ず。神気を蔵するを以つてなり。神去り気散じて、蔵ただ虚器、何を以つて視聴言動の其の所に随ふことを知らん。又何を以つて栄衛参焦の統紀を見ん。是の故に昭々の視は冥々の察に若かず。赫々の攻は惛々の弁に成る。之を視て理に求むること無くんば、則ち童子をして視せしむ、何ぞ異ならん。

佐野安貞『非蔵志』1760年

これは、日本ではじめて官許のもとで行なわれた解剖を記した山脇東洋の『蔵志』に反論したものである。佐野がいうには、解剖身体はあくまで「死体」であり、生きている臓器とは根本的に異なっている、実際の〈知見〉より「気」や「理」のほうが重要だ、というわけである。解剖で得られた知見など、童子の観察と変わらない代物にすぎない……。こうした状況下で、解剖と翻訳を〈同時に〉行わざるをえなかったオクシデンタリズムの可能性を考えてみよう。翻訳は、原理的にいって、上記の文献学的な二重構造は問題にしない。というのも、言葉(オランダ語)の意味とはもうひとつの別の言葉(日本語)だからである。目に見えない意味を見えないままに読み解こうとするようなことは必要がないし、無数の解釈などそもそもあってはならない。ここでは単純に、身体というただひとつの答えが用意されているからである。シニフィアンはシニフィエと組み合わされて構造をなすのではなく、別のシニフィアンと組み合わされて、横に連なるセリーを構成する。解剖もこれと同様である。人間が身体の内側に隠していたのは、目に見えない心や気などではなくて、もうひとつの身体である心臓や《神経》である。つまり、肉のなかには、もうひとつの肉があったのである。

わたしたちは、もはやオクシデンタリズムがもたらした衝撃を理解できないほど遠い場所にいる。ひとは蘭学に実学的な意味しか見出せなくなっているし、ましてやこれが儒学のような体系的な学問に対抗しうる表象論や言語論を含んでいるなど想像もできなくなっている。精神は心臓や神経のような目に見える表象とは異なる、という、カント‐ヘーゲル的な二元論を再度受け容れてしまったからである。だが、心臓はともかく、神経の概念などそもそも存在していなかった東洋における蘭学者の衝撃は、察するにあまりある(「神経」の語は杉田玄白たちの造語である)。儒学的な「心」の概念は、蘭学によって大幅に変更を余儀なくされた。精神とは、《神経》であった――つまり、《肉》だった。言葉が隠していたのは、意味ではなかった――もうひとつの言葉だった。

「フルヘーヘンド」は堆(うずたかし)といふ事なるへし。しかれは此語は堆と訳してハ如何といひけれは、各これを聞て、甚尤なり、堆と釈(やく)さは正当すへしと決定せり。其時の嬉しさハ、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。

杉田玄白『蘭学事始』

「フルヘッヘンド」の訳語を言い当てることが、なぜこれほどの喜び(玄白の言葉でいえば、無数の城と交換してもいいほどの玉を得た心地)をもたらすのか。それは、通例の文献学においてはありえない事態であることを想起すれば、少しは共感できるかもしれない。オクシデンタリズムは、近づくことはできても、いつまでたってもたどりつけない真理を追いかける文献学的読解とは、根本的に異なる思考法にもとづいている。「フルヘッヘンド」と「堆し」は、字面をみてもわかるとおり、完全に異なる単語である。この絶対的な差異にもかかわらず、これらの語は〈同じ言葉〉であることが確実である。翻訳において、同語反復にはなんの意味もない。差異は完全に肯定される。

肉のなかには肉があり、言葉のなかには言葉があった。すなわち、〈すべては表象なのだ〉。まったくの偶然の産物かもしれないが、彼ら蘭学者の天才が同時に行なった翻訳と解剖は、かくも有機的に絡みあっていたのである。

たしかに、それでも佐野の批判が通用する余地は残っているかもしれない。死体解剖で生身の肉体がわかるのか? しかし、この批判が通用するためには、ひとつ条件がある。生と死とがまったく相反する、ということである。しかし、生と死が違うというなら、どこに本当の死の意味を語れる生者がいるだろうか。漢方医学が内包している論理を原理的につきつめていけば、生と死もまた、対立的な区別を設けることはできなくなる。死は別種の生であり、また生は別種の死であるかもしれず、両者を泰然と分かつ理由もじつはあやふやなのだ。だとするなら、死体解剖によって生身の肉体を語るのを禁ずる理由もないのである。

むろん、蘭学者がこうした思考法を明晰に自覚していたかどうかは確かではない。しかし、蘭学の洗礼を浴びた多くの幕末・明治期の知識人には、こうした思考法の痕が顕著に見られるように思われる。いずれにしてもいえることは、蘭学は、そもそも翻訳が問題となっている以上、現実の西洋と実態的な関係をもたないということ、むしろ西洋と東洋のあいだの境界線上で繰り広げられたドラマだということである。正常な近代化(西欧化)などという戦後の問題とは、まったく無関係なのである。

小林秀雄は言っている。

近代の日本文化が翻訳文化であるといふ事と、僕等の喜びも悲しみもその中にしかあり得なかつたし、現在も未だないといふ事とは違ふのである。

『ゴッホの手紙』

小林のこの謎めいた言葉から、戦後の知識人は軽薄な欧化を非難するという非生産的な問題構成を作りあげてしまったように見える(とはいえ戦前の日本主義を批判せねばならない都合から、正しく近代化し、これと同一化すること――かつてのオクシデンタリズムに反する同語反復を実現すること――が使命となってゆく)。サイードをもっと深いところで読もう。そうすれば、《正しい近代化(西欧化)》という議論がいかに浅墓かが見えてくるはずだ。なぜなら、わたしたちの視線がつくる西洋など、オリエントがそうであったように、どこにも存在しないからだ。そしてさらに、サイードの議論をひっくり返そう。どこにもない場所は、そうであるがゆえにこそ、可能性をもつ。小林がいうように、日本の近代文学は、翻訳抜きにしては語ることができない。だが、そのことに対して、小林はポジティヴなのである。オクシデンタリズムがもたらした奇妙な言語論を受けついだのは、医学や実証主義などではなく、アカデミズムから離れた《文学》である。小林が指摘しているのは、そのことであるように思われる。

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