自己発火

criticism
2010.12.29

このところ身体の一部で感じているのは、懐疑につぐ懐疑、超越論につぐ超越論のはてに、神学的ドグマに回帰する傾向である。私はなにものをも決定しない、という態度は、究極的には、神(宗教)にすべての決定を委ねる神学的ドグマに行き着く。もちろん、懐疑の反動から神学的ドグマに飛びつく傾向もある。

独断を避けるべく、たいして深くもない超越論的思考に逃げ込んだあげく、すべての決定を神に委ねる。つまり結局、超越への回帰、というわけだ。たしかに超越は必要だ。しかし、神はかならずしも必要ではない。

独断の世界と政治の世界は、たしかによく似ている。懐疑の世界と虚構の世界もまた、たしかによく似ている。しかし、この問題構成はよくない。いったい政治は、懐疑の果ての真理なき逡巡の世界なのか、それとも決断主義がもたらす独断的真理の世界なのか。

これはゲーデルの議論が逆説的に明らかにしたことだが、決定には、かならず超越が必要である(だから、ラッセルによる、パラドックスの解決方法は正しいだろう)。だから、超越を拒絶する超越論や懐疑論は、決定を先送りしたあげくにもっとも巨大な神という超越を召還せざるをえなくなる。

もうすこし言を費やせば、なにかを論理的に証明しようとするとき、かならずそれを決定する超越が必要となる。超越論でごまかすことはできない。というのも、超越論では、証明にも真理にも到達しないからである。超越論とは、真理はないということの消極的な言い方にすぎない(現在、文系の学問は、超越論のおかげで無限の反証可能性地獄に陥っている)。

したがって、神を否定する際、ニーチェのいう《高さ(超越)》まで否定するなら、独断論を避けるべく行なわれる無限の懐疑によって、なにも決定できない事態に陥る。こうした回避の姿勢は、結局は、すべての決定を神に委ねることと同じである。

超越論とは、超越など存在しない、という意味だ。だが、その同じ超越論が、最悪の超越を、すなわちひとりではなにも決定できない、したがってなにもかも委ねらるべきただ一人の神を招いてしまう。ニーチェは、神を否定することが、生半可なものではないことをよく知っていた。

懐疑と独断を両立させるのは、そう簡単なことではない。しかしニーチェには、答えはもうはっきりしていた。宗教を否定するならば、超人しかないということ、超人を拒絶するならば、宗教に回帰するほかない、ということである。

超人のひとつの条件は、進歩の風である。あるいは、この進歩の風を受け止める翼を人類が持つことである。人類が現実に進歩しているということは、超越論ではないやり方で、人が人を乗り越えていく高さを実現できることを意味する。逆に進歩の風が凪いでしまうなら、宗教を回復しようとするおなじみの議論が湧き出てくる。

もちろん、ニーチェには、進歩の風などあやしいものにみえる。したがって、問題は自己発火である。ニーチェの書物は、いつもわれわれを燃え立たせようとしている。彼の書物が要求しているのは、理解ではなく行動である。どうすればわれわれは自己発火できるのか、あるいは同じことだが《人生の目的》をもつことができるのかを、学ばねばならない。

われわれはおそらく、子どもたちに人生の目的を持たせることの必要をほとんど教えてこなかった。進歩の風や経済発展の風に乗っていれば、たしかにそんなものは必要なかったからだ。風がすべてを決定してくれたのだ。しかし今では、成人するまでの二〇年を、人生の目的の探究に費やさねばならない。

ところで、作家とは、自己発火の才能をもった一群である。経済や科学、進歩の風から取り残された彼らは、さりとて宗教に回帰することもできず、ただただみずから発火しなければ生きていけなかった。ニーチェはもちろんだが、そんな作家がかつての日本にもいたことは、確かである。

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