デリダとアーキヴィスト

criticism
2005.10.07

たとえば、とあるデリディアンはこう言っている。

テクストはつねに完結せず、開かれている。これはクリステヴァやエーコを参照するまでもなくありふれた認識だが、デリダが優れているのは、[…]彼がそれをネットワークの不完全性の問題から考えた点にある。そこではテクストの「開放性」は間テクスト空間への溶解としてではなく、むしろテクスト=手紙の一部が配達過程で行方不明になったり、あるいは一部損傷したり他の手紙と混同されたりする可能性として捉えられている(1)

たしかに、このような認識は、テクストを、あくまで同時代のものとして扱う文学者にとっては目新しいのかもしれない。だが、テクストが別の時代のものであることを前提にしている歴史学者には、やはり、ありふれている。そんなことを歴史学者に言えば、“あたりまえだ”と返されるだけである。この点で「デリダが優れている」ということはない。クリステヴァやエーコが文学的テクストのみを参照項にしているとするなら、デリダは歴史学的テクスト、すなわちアルシーヴを参照項にしていると考えればいいだけになってしまう。それでクリステヴァやエーコと本質的に差異化できるわけではないのだ。つまり、「空間への溶解」ではないにせよ、そのような「開放性」は、“時間への溶解”であるような危機を依然として孕んでいる。そもそも、国家は、空間を占拠する以上に時間を占拠することによって、はじめて国家なのである。そのことを忘れてはならない。

実際、フーコー主義的概念ならばともかく、デリダ主義的概念は、歴史学のカテゴリーでは歯が立たない場合が多い。デリダ主義者の言う脱構築など、歴史学では何の役にも立たない。実証主義者は、毎日、飽きもせず、ちゃんと一次資料――アルシエクリチュール――を使って、実証主義の内部でパズルの組み換え――脱構築ばかりやっているのだから(建築のカテゴリーにおけるデコン派と同じように)。言表とか、アルケオロジーとか言うほうが、まだ威力があるというものだ。

歴史学において、テクストは、つねに誤配されたものである。実際には別の目的で書かれたものが、アーキビストの手に渡っているのだから。そして、多かれ少なかれ、また作為か自然かにかかわらず、総じてテクストは損傷を受けている。損傷のないテクストなど、歴史的資料にはまず存在しない。そしてなにより、行方不明になったテクストの方が圧倒的に多い。福沢諭吉が書いたと考えられていたテクストが、じつは編集の人間が名を借りて書いたものだったりもする。そんなことはしょっちゅうある。テクストの「開放性」と呼ばれているものがそのようなものだとするなら、この「開放性」は、歴史において閉じられてしまう。誤配や損傷、混同や行方不明、それが歴史を作り出すのだから(それがなければ歴史は存在できない)。そして、書き手の存在する時空間と、読み手の存在する時空間との差異は、アーキビストによって利用され、食べ尽くされ、そこで溶解する。もちろん、アーキビストはこの差異に関するアーカイヴを書くから、それがまた、後世のアーキビストに対して、剰余としての価値を作り出す。かくして、価値は無際限に増殖しつつ、全体として歴史によって閉じられる。要するに、マルクスが分析した資本主義と同じことが起こっている。この歴史の連鎖が決済を迫られる事態になったとき、恐慌に近い事態が起こる――歴史による、歴史を共有しない他者の締め出しである。テクストの「開放性」が誤配や損傷なのだとすれば、それは資本主義/歴史主義的空間を超え出るものでないことは明らかである。そんな痕跡は、歴史の餌にすぎないし、単純に歴史学を肯定するだけの言質にすぎなくなる。この損傷や行方不明のおかげで、アーキビストは飯が食えるのだ。デリディアンの議論は歴史学者を喜ばせるだけだし、新たな歴史学者が増えるだけである(実際、増えている)。こんな射程の浅いデリダならば、たしかに、痕跡に崇高を見出すレヴィナシアンとも結びつくのかもしれないが、これで資本主義や国民国家の閉塞を打ち破るのは、理論的にも実践的にもむずかしい。特異なフェティシストを肯定するだけの言質へと、早変わりしかねないし、同じことだが、痕跡が作り出す自閉的空間の拡大をただ肯定できるだけだ。もし、仮に、“近代のアポリア”を解決する、というようなお題目を受け容れるとしても、それではたしかに何も解決しない。

未来は、もっと遠くにある。たとえば、痕跡の彼方に。

【註】

  • (1) 東浩紀『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』新潮社、一九九八年。この本の議論で興味深いのは、「郵便的存在論」(=古文字)に対する極端な称揚と、その回避である。ようやく本当のデリダ論に入るか、というところで、彼は、不思議なことに、突然議論を止めてしまう。彼が亡霊だと言っているのは、「古文字」にすぎないのではないか。ところで、「古文字」はその名とは裏腹に、“現在”である。もちろん、“現在”は他者ではなく、たんなる鏡像である。

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