書評について

criticism
2002.11.05

書評は必要である。また、真に生産的なものとは、まずもって良質の書評から始まる。

たしかに以前、批評、あるいは思想が、文学を殺すと書いたことがある。だが、それは、むしろ歴史的に不可避なのであって、たんに否定すべきものではない。世界とは、世界の解釈である。このことは、オリジナルがすでにコピーであることを意味する。しかし、では、まったくのオリジナルがないかと言えば、そういうわけでもない。むしろ、コピーとコピーのあいだに、オリジナルが存在する。近代小説の“祖”と呼ばれるセルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605,1615)をみよ。あの作品は、騎士物語――中世のロマンスに対する批評であり、物語批判である。日本文学史上最初の小説と認められる紫式部の『源氏物語』をみよ。あの作品は、漢文の素養を完璧に身につけていた作者による、漢文学の批判を含んでいるのであり、またそのゆえにこそ、「小説」と呼ばれるにたる作品なのである。歴史が、過去の人々の文献に対する応答(response)によって形作られるように、文学は、その正当な応答である書評によってこそ、生み出され、形成されてきたのである。書評=応答(response)とは、文字通り、現在を生きる人々の責任(responsibility)なのである。

なぜ、文学は批評形式をもつのか。それは、“神の死”と密接に関わりあっている。レパントの海戦で活躍したセルバンテスの時代は、もちろん、同時にジョルダノ・ブルーノによって『無限、宇宙および諸世界について』(1584)が書かれた時代でもある。ヨーロッパが世界の中心ではなく、地球が宇宙の中心でもない。自らの行為を保証していた中世の《神=君主》は死につつあったのである。当然、そこでは、作品は神によって保証されず、閉じられもしない。「I’m happy.」という言表を暗黙に保証していた主体=君主としての《神》は死滅し、「I say (that) I’m happy.」、すなわち超越論的な自己が主体=臣民として自らの行為を保証する時代が到来した。万人の多様な解釈に向けて、作品が開示されたのである。当然、言葉は意味作用(シニフィカシオン)のなかにあって、絶対的な意味を保証されず、人間が自ら浮遊する意味を一義的に定義する必要性が生じる。それが、批評である。近代文学は、その誕生ならざる誕生――オリジナルがコピーであるという意味では――から、批評を必要としたのである。

もちろん、一義的に定義するといっても、それは神的な絶対性を帯びることはない。意味の定義は、つねに、作者と読者の美学上の趣味判断によってなされざるをえない。個人的で特殊なものでしかありえない趣味判断を普遍的なものにするために、批評がなされるのであり、また同時に、それが、新たな主体化の場としての作品の基盤となるのである。言うなれば、この無限の主体化のプロセスこそが、《近代》であった。「I say that I say that I say that….I’m happy.」。「「「「わたしは幸せだ」とわたしは言う」、とわたしは言う」、とわたしは言う」・・・とわたしは言う。こうして、《近代》は《作者》を生み、あの豊饒な文学作品を生んだのである。

それでは、なぜ、批評が文学を殺すのか。批評、それも優れた批評は、たしかに、万人に開示された多様な可能性をもちうる作品を一義的に閉じる役割をはたすかに見える。そこでは批評が作品の可能性を奪っているように見えるかもしれない。だが、それは一時的なものでしかない。優れた作品は、時代を超え、またさらなる可能性を生む。シェイクスピアやゲーテ、あるいは古代ギリシアのソフォクレスがそうであるように、彼らの作品は時代に応じてさまざまな形をとりながら、幾度も復活してきた。もし、一度の批評でその作品が閉じてしまったとすれば、それは作品がそもそも限界をもっていただけの話である。批評がその力だけで作品の可能性を永遠に閉じてしまうことはありえないのである。むしろ、狭義の優れた批評とは、一義的に方向付けられ、整流されつつある作品の新たな可能性の開示であると言えよう。セルバンテスが『ドン・キホーテ』において行ったことは、死滅しつつあった騎士物語の別の可能性の開示なのである。だが、一方で、20世紀に入って、カフカやジョイス、あるいはロブ=グリエに代表されるヌーヴォー・ロマンにいたり、そういった無限の主体化を含む、言い換えれば批評をそのうちに内包する小説の形式そのものを問いに付すような文学が現れた。このとき、彼らが疑問に付しているのはなによりも《作者》である。ロラン・バルトが明らかにして以来、こうして《作者》は死に、批評家が生き残る。《作者》が一方的な被害者でないのは明らかだろう。むしろ、自己批判による自殺と言うべきである。批評家はニーチェの言う“最後の人間”として登場する。“最後の人間”は、たしかに文学の死滅を宣告し、猟場を失って自ら滅ぶ。フーコーの言う、たかだか近代以降の発明に過ぎない《人間》の死と同様に、《文学》はこうして死滅するのである。だが、断っておけば、それに伴って訪れる空白は時間的にも比喩的な意味でも刹那的なものである。死滅した《人間》が、みずからを《作者》として転生させるのだ。ニーチェの言う超人は、すでに登場している。彼らは《作者》と批評家の完全な融合体として登場しているはずである。そのことを証明するのは、おそらく、ソクラテス=プラトンである。彼らは複数であり、かつ、融合体である。したがって超人である。

書評を否定して中世に戻るなどナンセンスである。言葉のあらゆる意味において、書評が「不毛」などということはありえない。むしろ、書評こそが、豊かな《文学》の苗床なのである。

(補)

  • 「優れた作品だけが作品である」という言い方は真か否か――? 作品は、読まれなくても存在するが、同時に、読まれなければ存在しない。これは、合理主義と経験主義のアンチノミーである。このアンチノミーを解決するためには、作品が、優れていればよい。優れた作品は、優れているがゆえに読まれるからである。読まれない優れた作品という言い方は、虚偽なのである。したがって、条件付ながら、「優れた作品だけが作品である」という言い方は真である。

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