沈黙に音楽を、忘却に歴史を

criticism
2005.11.03

和音を弾くのが馬鹿馬鹿しくなったのは、いつごろだろうか。たぶん、21世紀になる直前だったと思う。ようするに、その時期が、わたしの調性崩壊の始まりだった。

今から百年ほど前に、和声法よりも対位法の方が強力であるといった音楽学者がいたはずだが、実際、ピアノを弾いていても、感じるのはそのことである。調性崩壊の引き金を引いたのが、音楽史的にはワーグナーであるとすると、調性を復活させたのは、ジミヘンということになるだろう(いや――これは異論があるだろうな(笑))。二〇世紀の音楽史の序列をはみ出しているのは、やはり、ジョン・ケージだけ、ということか?

わたしの個人的な経験は別にして、世間ではどうだろうか。調性崩壊は、世間で起こっているだろうか。笑ってしまうが、資本主義社会は、いまだに飽きもせず調性音楽を大量生産している。実際、いまほど和声法が浸透した時代もそうないだろう。ロックンローラーが聞いてあきれるが、彼らは規則にのっとって規則正しい音楽を大量生産しているのだから。

資本主義社会がおそろしいのは、真実を、逆さまにして提示してしまうことだ(この言い方は若干不正確かもしれない)。だから、調性音楽の飽和は、調性崩壊を意味しているかもしれない。百年という符号は、恐ろしい。百年周期で訪れる調性崩壊が示唆しているのは、戦争かもしれない。

だが、一方で、この崩壊に可能性を感じるわたしもいる。いくら調性がなくなろうと、音楽は、けっしてなくなってはいないからである。ジョン・ケージが言いたかったのは、そのことだろう。沈黙すら音楽なのだとしたら、わたしたちから音楽が奪われるということは絶対にない、ということである。

ところで、これは本当にすばらしいことだろうか。それはわからない。ひとが、いつまでたっても音楽を聴き続けねばならないということも、また、おそろしいことだ。ひとは、音楽に取り憑かれている。忘却がいくら記憶を奪おうが、歴史は存在し続ける、というのと、同じことだ。さらにいえば、それは、国家がいくら過ちを繰り返そうが、国家がなくならない、ということと、同じかもしれない。

まあいい。それが人生だ。沈黙に音楽を、忘却に歴史を。それが人間の背負った業である。少なくとも言えることは、沈黙や忘却を恐れることはない、ということ。歌をずっと歌い続けることはできない。沈黙なくして音楽は存在しない。忘却もまたしかり。沈黙や忘却を力に変えることができたら、世の中、少しはよくなるかもしれない。

フロイトは、無意識を象形文字だと喝破しながら、それを、“記憶”の問題に結びつけてしまった。だが、無意識は、“記録”なのだった。忘却した記憶が夢や無意識において繰り返されるのは、それが、記録だからである。記憶と記録の混同は、もっともいけないことだ。だから、分裂病を統合失調症というのは、あまりよくない改名である。記録と記憶を統合できるなんて嘘っぱちだからだ。それは、日記に書いたとおりに、出来事が起こると考えるようなものである。

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