無頭(アセファル)の現代人

criticism
2014.05.17

フェルナン・ブローデルは、技術の歴史ほど困難なものはない、と、どこかで言っていた。近代史をやる以上、技術の歴史の研究を一度はやるべきだろうと思ったのは、じつはずいぶん昔のことだが、いざそれに取り組んで、ブローデルの言葉を思い出した。生命の定義の困難さに似ているところがある。

「てこ」は、思わぬ力を生み出すことができる。しかし、考えてみると、「てこ」には起点がある。すなわち、「てこ」には、なにはなくとも初動のエネルギーが必要なのだ。こうしたエネルギー論からいかに離れて歴史を紐解くか。これができなければ、ひとの歴史は当分、変わらないだろう。

憲法解釈が変わり、戦争の可能性はますます上がっていく、そのときどうしても考えてしまうのは、若い兵士たちのこと。若い兵士、とはリダンダントであって、兵士はみな若いのだ。彼らの思いはいかばかりか。彼らのリーダーはといえば、兵士の拙劣な仮装とともに冗談めかした笑顔で玩具の兵器に乗り込み、兵士たちの卒業式の最中には東京でテレビのバラエティ番組に出演していた。戦争はゲームのようなものだ、怖くない……。

戦争の歴史を一度でも紐解こうとした者として、こうしたリーダーの存在は理解し難い。戦前と同一視することはまったくできない。各地に戦端を開く火花を各国首脳と一緒になってばら撒きながら、本人は液晶画面の向こうで満面の笑みを浮かべている。そういう彼だからこそ、《解釈》、ということなのだろう。

国家の水準で、あるいは国民の水準で考える、そのいずれもが終わりのないイデオロギー闘争に見え始める。われわれが考えなければならないのは、そんなイデオロギーが隠してしまう、実際に戦地に送り込まれ、命を落とすかもしれない、兵士たちのことであり、取り残される恋人たちのことである。

ほとんどの生物は、人間よりも理性が発達していると思えてくる。人間の暴走=発展の原因は、理性のリミッターを外して戦争を発明したことにある。否、それは理性の暴走だという弁証法を持ち出してもいいが、いまはもうすこし理性に期待してみよう。逆説的にも人間は、問題に直面したとき、頭で考えて解決するよりも、工学的解決を望むからだ。戦争の危機が高まれば、もっと重装備を、と思うのが人間である。

今日の若い知識人の多くは、工学的解決こそ、あらゆる問題の最終解決であると考えたがる。実際、文学部といっても、それは名ばかりで、その中枢はほとんど工学に乗っ取られている。あとは形式が残っているだけであり、これからはこの形式さえ一掃されるかもしれない。《文化》はきわめて危機的な状況にある。

アートも人文学も、おのれを工学と区別することができなくなっている。たしかに、もともと文化と工学のちがいはほとんどなかった。だがそれでも、それを分かつなにかはある。精神といってもいい、狂気といってもいい。要するに、そこに文学は、アートはあるか……。この危機は乗り越えられそうもないが、やるだけのことはやるつもりでいる。人文学はかならずまもる。

大学において文学部が一掃されようとしていること、知識人が工学的解決に活路を見出していること、そして国家が戦争に向かっていること、そのすべてが、ある結末にむかう物語の一連の仕掛けのようだ。ひとは、頭より手で考える生き物である。このことは宿命といっていい。頭でいけないとわかっていても、ひとは戦争を行なってきた。

現生人間が戦争を発明したとき、ほかの人類は驚いた。彼らは戦うより滅ぼされることを選び、戦争を行なうわれわれだけがこの世界に残された。これが人間の本質だとすると、おそらく戦争を止めるのは容易ではない。すくなくとも歴史家として、人間の歴史はほとんど戦争の歴史であるというほかない。

人間の戴冠? しかし、この人間は《無頭アセファル》である。冠を掲げるべき頭をもたない。そのために急ごしらえされたのが、《王》である。王は、無頭(アセファル)の人間における歴史的な次善策なのだ。それ以外に人間の暴走を止める仕組みがなかった。だが、もちろん、この王は仮装的な着ぐるみであって、ほんとうは手の暴走を追いかけるしかない。言葉はいつも遅れる。宿命的に。

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