秘密の美

criticism
2013.12.13

たとえばぼくは、秘密の概念を愛している。秘密は、永遠に秘密のままでは、存在していないのと同じだと、ひとはいう。秘密は暴かれ、打ち明けられねば秘密はいえず、そしてそれによって秘密は秘密であることをやめるのだと。しかしそれは、秘密が「社会」とともにあるときだけのことだ。

真の秘密は、たとえ打ち明けられても、そのことで秘密であることをやめはしない。たとえ暴かれたとしても、秘密は自分を守る最後の手を隠し持っている。つまり秘密は、ひとに運命を共有することを迫る。打ち明けられても暴かれても、秘密は秘密のまま、たとえば愛し合う男と女とを結びつける。

秘密を隠そうとする者たちからも、秘密を暴いて公にしようとする者たちからも、恋人たちは自由でなければならない。もっとも、彼らはじつは「自由」ではない。運命をともにし、相手に命を捧げるのだから。彼らが「自由」になるとすれば、秘密が秘密であることをやめるとき、運命が彼らを分かつとき。

国家は秘密を隠すのではなく、打ち明けることで、国民と運命をともにしようとは思わないか。社会は暴くのではなく忘れることで、ひとを救おうと思わないか。かつて、秘密が恋人たちの専有物だったとき、秘密はとても美しかった。情報の概念に塗れもせず、ただ、ひとに恋を促す謎めいた音響装置だった。

国家や社会から離れた場所にこそ、秘密は美しく保たれている。誰も手の届かぬ場所に咲いた花が美しいとしたら、それは秘密の場所に咲いているからだ。永遠に秘密であるような秘密を信じることができるとしたら、世界はこのくだらぬ情報社会の何倍も広がるのだ。素晴らしいと思わないか。

誰からも知られず、秘密のまま生きているひとたちの世界を想像してみたことがあるか。それは不幸なことと思うだろうか。しかし、それは過去の死者たちや、これから生まれてくる子供たちの世界ではないだろうか。過去と未来とに秘密を残したまま、彼らは現在にやって来る。この世界は秘密に満ちている。

わたしは秘密を暴いて公にしたいのではなかった。君が秘密をわたしにそっと囁いてくれるのを、ずっと待っていた。わたしが秘密を打ち明けるに足る人物かどうか、それはわたしが歴史家たりうるかどうかにかかっている。つまり歴史家は、謎めいた君と、運命をともにしたいと思っている。

地球の裏側で降る雨の音は、存在しないのと同じだろうか。わたしの聴いた雨音だけが、雨音なのだろうか。そんなことはない。永久に感覚できないとしても、わたしにとって、雨は雨音とともにあってこそ雨である。雨が降っているとしたら、地面を叩くあのリズムもまたそこにあるのでなければならない。

ただそれは、わたしには聴くことができない秘密のリズムであって、歴史もまたそれと同じである。わたしの手許にある言葉の意味をわたしがもし受け取ったなら、あの雨音と同じように、そこに過去のひとの生が存在している。すなわち、それは秘密のまま、わたしにその生をそっと打ち明けたのである。

歴史の概念がまだ美しかったとき、そこにはたくさんの秘密が隠れていた。歴史家は、暴くより秘密の方から語りかけるのを待つほど楚々としていた。歴史に秘密が隠れていたように、歴史書にも秘密が隠れていた。しかしいまや、すべては情報である。読者は秘密を求めていない。情報を求めている。

あからさまであればあるだけ素晴らしく、秘密の文字を理解する気はさらさらない。思想は情報を隠してしまうがゆえに疎ましいものであり、あるいはもっとおぞましいことに、思想とは、情報の書き手の情報である。つまり精神にも肉体にもその余地はない。すべては、情報なのだ。

目に映る、耳にきこえるあらゆるものが、君にとっての「情報」であり、そして君の肉体も、そして君の精神でさえも、君にとっての「情報」である。美しい花を君が体験したとき、君はその花の名を写真とともに記録する。忘却のなかでこそ美しく化粧する思い出は記録に変わり、記録は君に情報を提供する。

あらゆる表象が徴(しるし)であるよりも情報となり、君は思想を失っていく。情報が人知れず敵視しているもの、それは「思想」なのである。機械は、ひとから「思想」を奪いはしなかった。むしろ機械は、その本質において、ひとに「思想」を高めることを要求していたのだ。しかし情報はそうではない。

プラトンのイデアも君にとっての情報にすぎず、レオナルドの絵画も君にとっての情報にすぎない。高嶺で咲く花も、雨音のリズムも、殺戮の歴史も、恋人の涙も。知っていれば知っているほどそれはすばらしいという、この一方通行の概念が世界を覆ったとき、ひとの運命は決したのである。

機械から情報へ、これがわれわれの時代の悲劇である。機械は人間を《疎外》した。だがそのことは、人間の思想にとってはチャンスだった。しかし情報は、人間を《集約》する。われ知らず引き寄せられ、そのことに気づくことができないほどに、情報は思想を根底から破壊する。疑問は生まれないのである。

将来、誰が今日の思想を歴史として描きたいと思うだろうか。いまや思想は、ウェブ上を漂う情報にすぎないというのに。情報の蜷局のなかから抜け出し、情報の概念に完勝することなしには、思想は生まれえないと断言してもいい。情報の網にかからない秘密の言葉、それこそ「来たるべき思想」である。

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