審美について/解釈

criticism
2014.06.30

若者に期待する努力とは、美しいものを見聞きすることである。美は欲望と結びついている。欲望にしたがっていればいいのだから、一見、簡単なようで、存外むずかしい。ひとが醜いと思うものにも、美は隠れている。逆に、一見美しくても、醜いものもある。なにが美しいかを見極めるのは簡単ではない。自分自身の欲望に尋ねても、答えが返ってこないこともある。そんなとき、歴史は示唆的だ。ひとはふつう新しいものに飛びつくから、古いものはかえってたいてい美しい。

今日のように、なんでもかでもシェルターに格納して残してしまう時代と異なり、前近代には、すべてが、時間のする世界の摩滅に逆らわず、ときに一瞬で、ときにゆっくりと消えてしまった。未来から過去に流れゆく時間に抵抗して、美は上流を目指して泳いでいく。だから残っているものは、たいてい、美しい。

なにが美しいのか見極める力は、自然や歴史に触れて、すこしずつ身につけていくもの。最初はわからなくていい。ひとは新しいもの、わかりやすいものに、飛びついてしまう。都会の亀裂に咲く花は、それ自体都会の亀裂であり、自然の流露であり、つまり美である。歴史が美しいのは、自然が美しいからだ。

人生は長くない。だから、できるだけ美しいものに触れてほしい。美しいものに触れれば、君たちの精神も同じだけ美しくなるものだが、反対に、君が美しさを感じられるのは、自然や歴史が美しいからなのだ。われわれが美を感じられるのは、われわれのなかに、自然と同じ美を保持しているからなのだ。

君の網膜に映った風にそよぐ木と木漏れ日の美しさは、もう二度と君の前に現れない。その景色は君だけのものであり、そしてまた、君は煌く木漏れ日とひとつなのである。世界が美しいと思えるとき、自然は君のこともきっと美しいと思っている。自然は美しいのだが、美しいものは、自然なのだ。

とはいえ、なにが美しいのか見極めるのは簡単ではなかった。はじめは、歴史に教えてもらうといい。近くに運慶のつくった無著像や、白鳳期の十二神将の塑像があるから、みてみるといい。ひとまずは、これが美しいものだと、決めてかかるといい。そこから少しずつ、自分の美的感覚を広げていくといい。

自分は、変わるなら解釈改憲だろうと言ってきた。自分の深刻さを周囲はあまり理解しなかったが、状況からいって、それしかなかった。要するに、護憲派と改憲派の弁証法的な一致点というわけだ。今日が、その特権的ないくつかの日のひとつになるわけだが、今日ほど歴史家の無力を感じない日はなかった。

人間の社会をつくるのは、社会学者でもなければ技術者でもなく、ましてや政治家でもない。広い意味の、歴史家である。別の言いかたをすれば、拡散して、希釈された先祖崇拝を担う者たちだ。ある社会を持続可能なものにしているのは、誰あろう、そのような意味での歴史家である。われわれの種が遺伝子によって維持されているように、言葉が次代に受け継がれてゆくことが、社会を可能にしている。

クローチェの古い言葉を借りれば、歴史家はつねに現代史家だが、要するに、古い言葉を現代に理解可能な形で解釈することが、その仕事である。そしてそれこそ歴史を紡ぐということの意味である。それと似て非なる資料保存も結構だが、残すべきものを残す、すなわち言葉を紡ぐことを忘れるべきでない。

ただし、法の実践は、いつでも解釈である。文字通りの実践などということは起こらない(それは言語というものを誤解した考えだ)。つまり、法の実践は、歴史のなかでしかなされえない。いままで解釈されなかったとしたら、たんに憲法が深刻な案件になる状況が作られてこなかっただけのことである。

さて問題は、誰が法を解釈するのか、ということだ。いうまでもなく、人間である。真実を求め、美しいものに喜び、そしてよくよく考え抜く、そうしたことのできる人間が、法を解釈する。つまり問われているのは人間なのであり、そうであるからには、人間には、まだチャンスはある、ということだ。

もし、護憲派の努力が、法をシェルターに凍結させようとするような不自然な努力であるなら、それでは加熱する状況に対応することは不可能だろう。むしろ沸騰するあらゆる状況に対する解釈の勇気を競うのでないならば、法を具体的に実践しようとする一部の責任ある権力者たちにかなうはずがない。

また、歴史家は、法文から出発して歴史を解釈するのでなく、法外にあって法を可能にした人間精神を問うべきだ。それなしには、法が真の意味で受け継がれることもなくなってしまう。あえて戦前を賛美していうが、平和を求めて《最後の》戦争を実践した日本の若者ゆえに、あの法が可能になったのである。

日本の歴史を否定しておきながら、その成果である法だけは維持しようとする姑息な現代人の精神で、あの法が守れるはずもなく、結局のところは法の具体的実践者たる政治家や法律家によって、形成され、維持され、解釈されるに任せてきたのである。歴史家は、歴史のなかで戦うことを忘れてはいけない。

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