妖精たち、あるいはヒューマニズムの庇護者

criticism
2011.11.26

犬のディオゲネスが人間を探して昼間の市場でランプを灯していたのは、アテナイがアレクサンドロスのマケドニアに従属する頃の話。ニーチェはこのエピソードから、超人の概念に行き当たる。超人は、ヒューマニズムを否定しているわけではない。ただ、人間が人間を探す、ということの意味を問うたのだ。

アンチ・ヒューマニズムに心地よい響きを覚えていたころが懐かしい。いまでは、わたしはなにより人間を求めている。学問のなかに、芸術のなかに、人間がいない、そしてそのことが当たり前になっている。人間を求めるひとたちの歴史が書かれたなら、それはきっと美しいものにちがいないと思うのだ。

歴史家ミシュレは魔女に、歴史家フーコーは狂人に、心血を注いだ。つまり二人は、人間にはなれなかったひとたちの歴史を描いた。いまでは、彼女たちは虚構やファンタジーの世界でかろうじて息をしている。ひるがえって戦前の小説家たちのよき意志を感じる。彼らもまた、ミシュレらと同じ世界の住人であると強く感じる。

歴史はもっと文学的でなければならない。文学はもっと歴史的なものでなければならないと感じる。つまり人間を求めるものでなければならない。いまでは魔女や狂人はいない。みな妖精になって、姿を消してしまったから。われわれの目には入ってこない妖精たちを、ふたたび歴史のなかに感じることができるだろうか。

島崎藤村はなぜ穢多非人の小説を書こうとしたのか、泉鏡花はなぜ小説に妖怪を登場させるのか、小林多喜二はなぜ労働者を小説の主題に掲げるのか……。批評家が結びつけたがるナショナリズムとは、なんの関係もない。ただ人間を欲望するひとたちの歴史を書きたかっただけなのだ。

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