テクスト、あるいはロードス

criticism
2012.01.24

多くの若者たちは、歴史学は記憶から始まると誤解している。だが本当は、歴史は忘却から始まるのだ。誰かの記憶が失われてしまったときが、歴史の出発点なのである。記憶痕跡を持続させようとする試み自体は、人間的なものであって否定できない。だが、歴史家はあまりかかわりたくないものなのである。

テクストの内部に人間を縛り付けようとするデリダ主義者と、テクストを永久に凍結しようとする実証主義者の結託とが、今日の社会の閉塞の源泉である。彼らはおたがいを毛嫌いしながら、じつはその裏で結託している。人間を捕獲する網、すなわちデータベースの構築に余念がない。あまりに人間的な者たち。

だが、歴史が始まるのは、それらのテクストが燃え尽きたときである。人為的な炎も自然の炎も、おなじくそれらを発火させ、そして未来の歴史のための余白をつくる。われわれ歴史家は、その余白を取り返そうとする。古い真実の物語を愛しながら、にもかかわらず新しい真実の物語を創りあげる。

テクストの彼方、記憶痕跡の彼方にある忘却、この広大な大地こそ、歴史家の本当の仕事場だ。たとえばプルーストを片手に、彼は人間が忘れる動物であることを言祝ぐ。そうでなければ、歴史は一方に罪を着せる裁判と誤解されるし、他方にはいつまでたってもかわらぬ、地獄の現在が続いていく。

テクストとは、守りつづけるものではなく、飛び立つための土台、ロードス島である。この土台なしには飛べぬとしても、やはり最後には、この土台は捨て去られるべきものなのだ。

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