ジャクリーと妖精

criticism
2011.10.16

かつてゾラが、コローの描くニンフが労働者であれば、もっと高い評価を与えたと、言ったことがあった。一理はある。だが、わたしは労働者とは、ニンフのようなものなのだと感じている。数えることを許さない、特別な自然。数を数える人間を笑い、夜のうちに付け足したり差し引いたりしているような。

各地で起こるデモを支持しているが、これらは現代のジャクリーに見える。自由と平等をめぐって専制政府を打倒し、帝国主義に反対し、あるいは共産主義的な社会を実現する、というような革命には付きものの理念はいまだ見られないからだ。

われわれ知識人に賭けられているのは、そしてわれわれにとってやりがいの仕事でもあるのは、ただデモのある社会を良しとするのではなく、このジャクリーにどういう理念をもたらすことができるか、である。彼らの行動が《言葉》を持てば、世界はもっと音楽で充たされよう。

民衆はたえず美しいのではない。虐げられてみえる民衆も、実際には被差別民を生み出す主体にもなる。デモが《言葉》を失えば、偏狭な暴動に発展することもある。民衆が隠し持っている美しさは、政治の中でかき消えることのほうがはるかに多い。そうした美しさをすくいあげる言葉を与えられるかどうか。

いまや誰もが民衆である。だが民衆が多数派を形成するときに、たえず少数であるような、言い換えれば数え上げられる手前で消えていく妖精たちの存在が忘れられていくのだとすれば、わたしは彼らの歌う歌においてこそ、革命は完成すると言いたくなる。歴史家としてもつべき軸はそこにあるように思える。

そしてもしわたしのやってきた人文学がそこに貢献することができないとすれば、わたしの仕事も甲斐のないものとなろう。芸術家にしても、人文学者にしても、日々なにをやっているのかよくわからない者たちにとって、こういう場面こそが、本当の意味での仕事どきなのだ。

それにしても可笑しいのは、わたしがほとんど誰も支持できないと思っていることだ。民衆のなかの民衆、そのなかのさらに小さな部分を占めている妖精たちを、わたしの目はずっと追いかけている。革命以後の学問が目指した少数者たちの声を聞き届ける耳が、いまや喧騒のなかで役に立たなくなっている。

若者たちは仕事がしたいと思っている。すくなくともわたしにはそうみえる。しかし、それは、過去の負債のための奴隷の労働であってはならない。未来の利潤のための芸術家(生産者)の仕事が、若者たちから奪われている。純粋な現在はない、すべては過去に汚染されているという哲学を、克服したいのである。たとえ形而上学と言われようと。

日々の仕事においておのれを表現できるのでないならば、デモにおいて自己を表現したとしても、究極的には空しかろう。われわれはそれほどに日々の仕事のなかで未来の表現を奪われている。デモとはいわばその苦しみであり、その裏返しのサバトである。

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