デモと実践

criticism
2015.07.21

いてもたってもいられなくなってデモに参加した若者たちの純粋な精神とひきかえ、経済効果のために若者を戦争に参加させようとする大人たちの精神の貧困は見るに堪えない。だが、日本のインテリにはもうすこし責任があると、ぼくは思う。

現政権を民主主義と立憲主義の破壊者であると知的に認定するなら、なぜデモという、相手が民主主義者かつ立憲主義者であることが前提のやり方を若者たちに実践させ、自らもそこに参加して平気なのか。論理的には知性を気取る側が破綻している。それは戦後の責任逃れのためのアリバイづくりでしかない。相手が知識人のいうとおり立憲主義者でないなら、社会の分裂をわざわざ避けてまで、自説の譲歩はしないだろう。自説を飲まない者は非国民として排除するだけである。はじめからルールを共有しない者たちでする奇怪なゲームに参加した以上、ルールをただ守れといういいかたは通用しない。

相手が自分たちの声を聞いてくれる民主主義者であることが前提の、相手に依存する認識論的なやり方をしているかぎり、相手はたんにじっとして、風の過ぎるのを待っていればよいだけである。ひとは忘れる。彼らはそのことをよく知っているし、インテリの緩さもよく知っている。足下を見られているわけだ。

社会から除け者にされている学生たちにはなんの武器もない。唯一、助けを求める声、デモだけがある。だが、言葉を持つはずの、日々言葉を磨いているわれわれインテリには、非暴力の武器がある。すなわち、ゼネストである。たとえば、歴史家なら、権力者のために未来に言葉を紡ぐのを放棄することだ。

科学者ならば兵器のための実験を放棄し、詩人なら、為政者を褒め称える口を噤めばよい。相手が忘却を兵器のために利用するなら、同じその忘却が、権力者に向けられた、非暴力の武器にもなる。言葉や知を磨いてきたからこそ、できる非暴力の、つまり沈黙の、別の言葉でいえば神的な戦いがあるということだ。

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