もっと多くの孤独なダンサーたちへ

criticism
2008.03.21

長年、ほとんどまともにひとから認められたことのなかったセザンヌは、南仏エクスに隠棲し、孤独な生活を営んでいた。そんな彼も、五十五歳になった。ある日、いくらか気分がよかったのか、不意にかつて親しかったモネの家を訪れた。そこには、ルノワールやシスレーもいて、誰もが、その訪問に、思いがけない喜びと、そしてわずかな興奮さえ感じて、手を広げてそこに彼を迎え入れた。セザンヌに向かって、主人のモネは、こう言ったという。「この機会に、ぼくらがいかにあなたを愛し、あなたの芸術を尊敬しているかを伝えることができるのはうれしい」と。セザンヌは、それを聞くと、自身の顔をにわかに驚きと非難の表情で曇らせた。「きみもぼくをやっぱり馬鹿にするのか」。彼はこう叫んで、モネの家を飛び出していった。……

この有名な話を、わたしは、昔読んだ高見順の絵画論によって知った。高見順は、それに対して、こういっていた。「この挿話はいたましい。心の友ともいふべきモネの言葉でさへ素直に受けとることができないほど、どんなに賞賛や尊敬から無縁のセザンヌだつたかを、この挿話は告げるのである。…ながいその不遇は、親しい仲間にまで猜疑の眼をむけさせるかれにしてゐた」(「四人の画家 その人生と芸術」一九五九年)。

セザンヌほど、絵画に真正面からぶつかっていった画家も、めずらしい。彼は、絵画とは何か、とは問わなかった。そうした問いはありふれているし、どんな絵画であろうと、ただそれが絵画であるというだけで、「とは何か」というクエスチョンマークを撒き散らしているのである。だが、彼は、十九世紀後半のある時期に、なにが絵画でありうるのか、ということを、そして絵画が本当はなにを行なっているのかを、真剣に、知的に考えていた、ほとんどただひとりの画家であった。こうした問いがありうること、そしてこうした問いが必要であることを、彼以前のひとたちは、ほとんど知らなかったのである。

ニーチェは、セザンヌと同様、歴史とは何か、とは、問わなかった。彼は、歴史は、なにを行なわねばならないのかを、問うた。そして、人間の歴史は、ひとに何を行なわせねばならないのかと、問うた。こうした問いもまた、それまでは、必要と思われていなかったし、また、そうした問いを問おうとしたひとさえ、なかったのである。

ベンヤミンは、パウル・クレーの絵画を愛した。たしかに、クレーの絵画には、人間の歴史は、ひとに何を行なわせねばならないのかという、ニーチェの問うた問いに答えようとする、ひとつのある努力のようなものを、見つけることができる。クレーは、いつも、ある種の案内図を書いていたからだ。

わたしたちは、彼らの孤独な努力を知るまで、問いとは、立てられねばならないものだということさえ、知りはしなかった。絵画は、歴史は、そして問いは、いつだって目の前にある、などと自分勝手な勘違いさえ犯していたのだ。賞賛とは無縁の生を歩んだ、そして、誰よりも賞賛を欲していた、優しきセザンヌやニーチェたち。彼らはいつも、画家全体の、そして人類全体の運命について心配し、気にかけていたから、人類からほんの少しばかりの賞賛を受けとる権利くらいはもっていたのだ。パルナシアンを気取るつもりなどさらさらなかった、優しき男たちは、いつしか、賞賛されないということを糧にして、生きるようになっていた。だから、ひねくれ者の彼らは、過去の死人と、そして未来の子供たちのためだけに、絵を描き、そして歴史を説いた。というのも、過去の死人や未来の子供たちは、ふつう、ひとが他人を賞賛するために用いているような、意味に満ちていて、それでいてやけに高くつく声を、もっていなかったからである。死人や子供たちの声は、言葉というよりは、音楽のようだった。そういう音楽を聞くことだけで、満足できるように、彼らは自分の耳を鍛え上げたのである。彼らを祭り上げ、そのくせ日々の祈りの見返りをほしがっているそんな賞賛よりも、ただ音楽のような賞賛が聞きたいと思うようになったのである。だから、セザンヌたちの死後、未来のひとたちは、彼らを誉めるとき、音楽を奏でるように、歌うように、誉めるようになった。

わたしもまた、彼らに、そして彼らだけでない、もっと多くの孤独なダンサーたちに、音楽としての賞賛を贈ろう。友愛を込めた手を差し延べよう。……

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