ルイ・ヴィトン――あるいは資本主義の精神

criticism
2006.08.14

今日、世界で見かけるきわめて多くの日本人女性が、ルイ・ヴィトンの鞄を持ち歩いている。といっても、日本人女性が、この鞄を作った一九世紀の家出少年の熱烈なファンというわけでもなければ、あるいは、何人かの外国人が誤解しているような、国家からこの高価な製品の配給を受けている、というわけでもない。たんに、自分の持っている一番高価なバッグだから、彼女たちは持ち歩くのである。もちろん、気に入って買ったという女性はほとんどいない。“ひとつくらいはもっていてもいいかしら”と思って買ったのである。そして、ローマ皇帝ヘリオガバルスが自分の顔に自ら糞便を塗りたくったのとは正反対に、様々な有名メーカーのロゴマークを無意識のうちに身体のどこかに塗りつけている女性たちは、“わたしはそんなブランド嗜好を振りまいて歩くような人間じゃないわ”と思っているのである。

これが大間違いなのだ。この“ひとつくらいは”というのが罠なのだ。というのも、みんなそう思っているからである。だからこそ、女性の数だけ同じ商品が売れるというような、要するに国家から支給されているのと結果的に大して変わらない、馬鹿げた事態が起こってしまうのだ。そしてこれこそが、洋の東西を問わず、《ファシズム》と呼ばれるものの源泉なのである。その意味では、ルイ・ヴィトンの職人業に熱烈な意志を持つ女性――一心不乱に自己を消し去ろうとする女性たち――の方が、よほど健全なのだ。わたしはむしろそんな女性を愛するとさえ言うだろう。“ひとつくらいは”という表現で自己の疚しい良心に居場所を残しているひとの方が、じつは病的なのである。ファシズムは、こうした消極的な――つまり自身がそれと意識していないような価値の共有にこそ、端を発している。そしてこうした消極的に共有された統一的な価値を、わたしたちは精神と呼ぶ。つまり、女性が持ち歩いているのは、使用価値というよりは空虚を詰め込んだ鞄としての精神なのだ。あのロゴ、膨らんだり縮んだりするあのロゴこそが、彼女たちの気息=精神そのものなのである。ファシストの仕事は、この消極的な精神を、ひとびとにはっきりと自覚させ、むしろ鞄の中を自己で充満させることだ。彼は、良心的な人たちに対しては、これだけしか言わない。「あなたが持ちたいと思っているものを、持てばいいのです。」

こうした精神の隠然たる侵食作用を克服する方法はひとつしかない。それはすなわち――“積極的に買わない”という作法について、学ぶことである。

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