小林秀雄の孤独

criticism
2008.02.07

小林秀雄について、なにか書いておこう。彼は、一九八三年まで生きた。その意味では、彼は孤独だっただろう。自分より若かった高見順も早世し、川端康成も自殺し、そして志賀直哉も死に、そのなかで、戦前のひとたちがもっていた、ある種の《文学》への共通理解のようなものは、もう失せていたからだ。彼の孤独がとりたてて不幸だとは思わないが(天才はみな孤独なものだ)、ともあれ、戦後の多くのひとたちは、文学――というか文壇に、一種の権力を感じていたし、それを攻撃することが、また戦後独特の一種の共通理解を築いていたようである。日本は、哲学する国ではない。文学の国である。近代以降、これほど、文学が、権力の中枢に食い込んでいた国も、そうはないだろう(前近代とは議論の中心が異なる)。戦前、多くの優秀な知識人が、むしろ在野にあって、官僚的な学問よりも、文学を選び、身も細る思いで文学作品を作りあげたのである。そしてそのことは、戦前の日本の社会のあらゆる美点をつくりあげた。その一方で、戦後は、それを消費した時代である。文学者を批判し、ときに非難し、文学者が作りあげた、アカデミズムのでっぷりとよく肥えた象牙の塔とは異なる、奇怪な文壇という玲瓏たる尖塔をその土台から破壊したのである(結果として、競争の対象を失って形骸化したアカデミズムだけが、荒野に醜い札束の塔を拵えている)。

高見順は、批評には、文学への愛がなければならないといった(高見は、サルトルやメルロ・ポンティよりもホワイトヘッドの方に賛意を表明した作家である)。それは、けっして間違いではない――というか、全面的に正しいと思う。この言葉は、感情的にではなく、理論的に読まれなければならない。偏愛はどうしようもないが、それはそもそも論外なのであって、文学批評が、文学を破壊してしまっては、なんの意味もないのである。知識人と大衆との関係を、アメリカのような形にしたいひとたちがそこらじゅうにいるが、それは誤りである。日本ほど、文学が政治権力の中枢に楔を打っていた国はないといった。それは、とくに戦前はそうである。だが、また同時に、戦後の日本ほど、文学者そのものを圧殺するような批評言語を好んだ国もないだろう。彼らは、かつての文学者が、やや自虐的に自身の生業を語る言葉を嬉々として、そしてやすやすと聞いた。そうだ、文学などつまらないものだ。もっと、現実を、もっと現実を……。彼ら戦後の批評家は、そうすることで、言葉と現実とを分割し、逆説的に、言葉のために、あらゆる現実から疎外すると同時に保護する、なにか奇怪な領域を作りあげたのである。文学は無力なのだ――そう主張することで、戦後の文学者は権力を放棄したが、同時に知であることも放棄し、その結果、一番得をしたのは、既存の政治家たちなのである。

そんななまぬるい「無力な」言葉の領域をつくるくらいなら、文壇のほうがずいぶんましだったと思う。文学は、およそあらゆる権力に反対せねばならない。したがって、力でなければならない(わたしがここでいう力とは、たとえば重力や電磁気力のように、現実になにか《具体的な》作用を及ぼすもののことだ)。また、言葉が現実の頂に登りつめるまで、それこそ玲瓏レンズのように磨き上げねばならない。だからこそ、おいそれとそう簡単には文学者の列にひとを加えるわけにはいかないし、また逆に、文学者を育てねばならない。したがって、文壇のような特異な領域が生じてしまうのは仕方がないのである。ことばは力であるし、反権力という権力もまた存在する以上、力が権力になってしまうことも、完全に避けることはできない。だが、そんなものを恐れていてはなにもできない。権力など、かつての可能性の残滓にすぎない。反権力に向けてことばを磨けばいいだけのことだ。戦後、降って沸いたように、権力の玉座が大衆の元に忽然と姿をあらわしたとき、当然のような顔で大衆が権力の中枢に座ったが、そのとき、真の文学者だけが、大衆から離れた。吉本隆明や、花田清輝(もう彼については自分からは語ることはないだろう)のような議論の中心とは、完全に縁を切ったのである。当然、文壇は、大衆からさえ攻撃を受けたが、文学者とは、権力に反対するためなら、むしろかえって天皇のために死ぬことさえ厭わないひとたちである(わたしのいっていることが正確に理解されるだろうか)。

誤解のないようにいっておくと、わたしはだいたいにおいて天皇制に反対だが、それは別として、話を小林に戻そう。彼はこういっている。

整理することと解決することとは違う。整理された世界とは現実の世界にうまく対応するように作り上げられたもう一つの世界にすぎぬ。おれはこの世界の存在をあるいは価値をいささかも疑ってはいない、というのはこの世界を信じたほうがいいのか、疑ったほうがいいのか、そんな場所にはてしなく重ね上げられる人間認識上の論議になんの興味もわかないからだ。…

ニイチェだけにかぎらない、おれはすべての強力な思想家の表現のうちに、しばしば、人の思索はもうこれ以上登ることができまいと思われるような頂をみつける。この頂を持っていない思想家はおれには読むに堪えない。頂まで登りつめたことばは、そこでほとんど意味を失うかと思われるほど慄えている。絶望の表現ではないが絶望的に緊迫している。無意味ではないが絶えず動揺して意味を固定し難い。おれはこういう極限をさまようていのことばに出会うごとに、たとえようのない感動を受けるのだが、おれにはこの感動の内容を説明することができない。だがこの感動がおれのかってな夢だとはまたどうしても思えない。

正確を目ざしてついに言語表現の危機に面接するとは、あらゆる執拗な理論家の歩む道ではないのか。どうやらおれにはこれは動かしがたいことのように思われる。…この世に思想というものはない。人々がこれに食い入る度合いだけがあるのだ。だからこそ、ことばと結婚しなければこの世に出ることのできない思想というものには、危機をはらんだその精髄というものが存するのだ。
(「Xへの手紙」『様々なる意匠・Xへの手紙』角川文庫、195-7頁)

言葉は、力である――彼は、そういっている。小林は、もはや完全に認識論とは手を切っているのだ。先日の丸山真男と好対照をなしているので、ここを引いたが、有名な「2×2=4」と「文体」について論じた箇所を引いてもよかったかもしれない(江藤淳や、柄谷行人が、どう考えても誤解して読んだとしか思えない箇所でもある)。ともあれ、小林の強い確信によれば、言葉は、意味を失うか失わないか、その臨界において、ついに現実の世界に接するのである。「おれにはこの感動の内容を説明することができない」。もちろん、わたしにおいてもそうだ。彼はつづけてこういっている。

…われわれの伝統は、西洋の伝統に較べて、この言語上の危機に面接してただこの危機だけを表現して他を顧みない思索家を、なんと豊富に持っているかとおれはいまさらのように驚くのだ。卓抜な思想ほど消えやすい、この不幸な逆説は真実である。消えやすい部分だけが、思想が幾度となく生まれ変わるゆえんを秘めている。おれはしばしば思想の精髄というものを考えざるをえない。(同前、197ページ)

本当の思想は、書かれていない。それは、《声》なのだ。だから、たちどころに消える。もちろん、この小林の「手紙」にも、それは《書かれていない》。戦前のひとびとがもっている音声中心主義を、わたしも共有する。痕跡も残さず消え去ってしまった声、歴史家に求められているのは、この徹頭徹尾認識論上の問題である「痕跡」――世界を信じたほうがいいのか、疑ったほうがいいのかという、くだらない問いと同じものである――を残さない声を、わたしたちのもとに手繰り寄せることなのだ。小林は、歴史に向かう。しかしそれは、認識論的な思想家が、歴史に向かったのとは、およそ反対の方向を向いてである。

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