兵士と戦士(メモ)

criticism
2009.03.09

兵士と戦士とを厳格に区別する必要を最初に説いたのはニーチェである。そしてニーチェは、ひとに兵士になるな、戦士になれ、と言った(ドゥルーズ=ガタリの《戦争機械》の概念は、この区別の延長上にある)。このニーチェの箴言は、いまこそ、有効であろう。

戦前のひとびとは、両者を混同し、大東亜共栄圏の戦士たらんと欲して兵士になるという過ちを犯した。戦後のひとびとは、そのことを強く糾弾する。だが、戦士と兵士の両者を混同していたという点では、ひとのことをとやかくいえるほど、戦後のひとびとに大差はない。戦後のひとびとは、彼岸にある物自体の手前に広がる現象の世界にくくりつけられて、兵士になれないのはいいが戦士にもなれなくなってしまった(といっても向こう側を「想像」することは許されている)。文学を守ろうとして、あるいは文学を非難しようとして、多くの人が、文学は無力だといい、言葉は現実とはかけ離れた比喩にすぎないと言った。ある者は戦争犯罪から文学を守ろうとして、また別の者は、文壇の息の根を止めようとして。ものの手前で行なわれるこうしたけれんみたっぷりの諦念の肯定に閉塞を覚えたのが三島由紀夫だが、ご存知のとおり、彼もまた、戦士になるつもりが、けれんみたっぷりにたんなる兵士になってしまったのだから、手に負えない。なお悪いといってもいい。要するに、右翼は戦士になるよりは兵士になりなさいと言い、左翼は兵士にも戦士にもなるな、というわけだ。文学は無力だといってアイロニカルにそれでも文学を行なう。わたしは文学が無力であることをとうの昔に承知している。屈折しているという点では、かつての日本浪曼派と同じである。兵士と戦士とを区別することは、やはりむずかしいことなのだろうか。

だが、北村透谷は違った(本来は近刊の『精神の歴史』で論じる予定だったが、うまく組み込めなかった、次に回す)。彼は次のようにいっている。

吾人は記憶す、人間は戦ふ為に生まれたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを。戦ふに剣を以てするあり、筆を以てするあり、戦ふ時は必らず敵を認めて戦ふなり、筆を以てすると剣を以てすると戦ふに於ては相異なるところなし。

「人生に相渉るとは何の謂ぞ」

彼が文学の道を選んだことについて、ひとは、自由民権運動の挫折がもたらしたと言っている。つまり、政治と文学は、方向性が180度異なるものだと言いたいのだ。こうした屈折は、たしかにリプレゼンテーション概念を弄する一連の批評家たちには都合がよいのかもしれないが、この文章に、政治的な挫折の痕ははたしてあるだろうか? わたしには、それは感じられない。素直にリテラルに読むかぎり、彼は徹頭徹尾、《文学》に対してポジティヴである。むしろ、《文学》において戦うということが、本当の意味で戦うことなのだということを、見いだしたようにさえ見える。「挫折」だって? 歴史において、その行為が挫折の結果なのかどうかは、ほとんど重要な要素にはならないのだ。というのも、歴史において存在できるのは、そうした内面的でそこにとどまりつづける葛藤ではなく、行為および、行為と連続した精神の諸結果だけだからである。政治から文学への連続的な移行が認められるとしても、それを挫折だと解釈できる保証はどこにもない。仮にそれが無条件に「挫折」と判断できるとすれば、それはあまりに「内面」を前提した言い方なのだ。ともあれ思うに、透谷は、民権派だろうが、国権派だろうが、それらに属する限りは結局は兵士にしかなれないということを悟ったのではないだろうか? ニーチェ同様、兵士ではなく、戦士たらんとしたのではないか? 彼はほぼニーチェと同時代のひとである。やや勇み足にいえば、その彼が、日本ではじめて、闘技的平和の概念を創造したのである。思えば、ニーチェはどこかで、書くことと勝利―自己自身の克服としての―とを重ね合わせていたはずだ。

当然、この系譜を過去にたどれば、坪内逍遥、植木枝盛、福沢諭吉が得られよう。わたしが好むのは、この線上にある《文学》である。彼ら麗しき、そして恐るべき子供たちには、幸福なカントの不在がある。われわれの問題は、カントの後で、いかにしてカントを遠ざけるか、なのだが……。

7 Comments

  • tyoshinaga

    2009年3月19日(木) at 17:59:55 [E-MAIL] _

    >われわれの問題は、カントの後で、いかにしてカントを遠ざけるか、なのだが……。

    そうですね。言えるのはこの課題を共有している人がいるのはうれしく思うということですね。
    それぐらいしか言えないのですが・・・

  • kio

    2009年3月22日(日) at 20:27:44 [E-MAIL] _

    どうも、TYOSHINAGAさん。
    ぼくは、カントについては、むかし、アンチカンティアニズムを書いた前後に考え方が変わったんですよね。思えば、ちょうどそのころ、アメリカにいたのでした。

    神がいると考えようが、神がいるかのように考えようが、結果はまったく同じです。もともと神なんていないんだから、内面的にいくら違いがあろうが、実践的にはなにも変化がない。もともと、神はいる「かのように」考えられてきたのです。

    ボケとツッコミってあるじゃないですか。これって、経験論(ボケ)と超越論(ツッコミ)を同時にやっちゃう一種の自己完結なんですけど、いま、みんなこれをふつうにやっている。結局、みんな超越論的なんですよ。神なんかいないけど、いるふりをする。いるかのように考える。

    たとえば、昔の漫画でも小説でも、とにかく主人公がボケつづけて、ボケつづけたまま終わるんですけど(あくまで突っ込むのは読者です)、いまどきの漫画って、漫画のなかにすでにツッコミがいるんです。それって、なんか閉じてるんですよね。

    というわけで、「超越論」(突っ込み/批判)を「超人」という究極の経験論=ボケに変えてしまったニーチェがとてもすごく思えます。ツッコミこそ、最大のボケなんだ、というか、ツッコミよりもボケの方が偉大なんだ、ということを最初に実践したのは、やっぱりニーチェだと思います。カントの『判断力批判』はよい本ではありますが、どうしたって「ツッコミ」にとどまってる。

    どうも、とりとめのない感じになってしまいましたが、このあたりで。

  • tyoshinaga

    2009年3月23日(月) at 0:05:32 [E-MAIL] _

    面白いですねww
    けど、読者からつっこみまくられるのは今現在なかなか辛いですよ・・・・。
    ネットで誰でも書き込めますからね。瞬時にネタとして消費されかねません。
    だからボケーツッコミを同時にやるか、沈黙するかになるんじゃないかとも思います。

  • kio

    2009年3月23日(月) at 10:13:04 [E-MAIL] _

    なるほど。
    まあ、それでもボケられるかどうかが賭けられているんでしょう。ボケーツッコミが同時に行なわれるのはカント的に言っても必然的だし、基本的にはいつだって誰だってそうなんだと思いますけど、要は、最後はボケで終わろうとすることが大事だと思います。批判や批評で終わっちゃ意味ないよ、っていうよくある、だけど大事な話。

    「なんでやねん」(漫才師のツッコミです:笑)で終わってちゃだめなんですよね。

  • tyoshinaga

    2009年3月23日(月) at 15:42:16 [E-MAIL] _

    >まあ、それでもボケられるかどうかが賭けられているんでしょう。

    そうですねえ、どうしたらいいんでしょうねえ。

  • kio

    2009年3月23日(月) at 22:56:05 [E-MAIL] _

    文学を実践する、というのは意外とおすすめですよ(笑)。お金にはならないと思いますけど。

    日本人や中国人は、民族(この用語は大雑把に使ってます)に共通の教養を構成する、究極の古典として、仏教とか儒教とかを持ったわけですよね。ヨーロッパ人の場合はギリシア・ローマもあるけど、とりあえずはやっぱりキリスト教。要するに、神話であるとか、宗教であるとか、学問であるとか、そういうものだったわけです。

    だけど、ギリシア人は違っていて、そういう究極の教養として、ホメロス、すなわち文学を最初から持っていたんですね。これってその後のギリシアの発展(民主主義だとか、科学だとか、芸術だとか)を考えた場合に、すごく示唆的なことだと思うんです。

    去年、たまたま「カラマーゾフの兄弟」と「イリアス」を十代のとき以来で読みなおしたんですけど、もちろん前者が圧倒的な傑作なのは認めるけど、もう断然、「イリアス」がすごいんですよ。十代の当時はわからなかったんですけど、三〇代の今ならわかるようになった部分があって、「イリアス」に軍配をあげてしまいます。異常な強度があるというか、驚異というか、もうなにがなんだか(笑)。「パトロクロスよ、お前はこう言ったな!」なんて、ホメロス独特のナラティヴが出てきてしまうくらいに興奮しました。ドストエフスキー以上に、ホメロスは小説家志望の人間を抑圧している。

    話が脱線してますね。それに、公開でだらだら書く内容ではないかもしれません。

  • tyoshinaga

    2009年3月23日(月) at 23:30:29 [E-MAIL] _

    確かにホメロス、よくいうぜ!とかいう感じで
    つっこみながらも笑えますね

HAVE YOUR SAY

_