言葉の力

criticism
2007.11.15

言語は、主体の意志を伝えるための道具である。このとき、ある語と結びついている特定の意味が参照されなければ、意志が伝達されるということはない、と考えられる。したがって、《意味》が共有されていなければならない。《意味》という仮象を経たうえで、はじめて、意志が伝達される。つまり、かならず語は屈折のプロセスを経るため、語が表象する意志に対して、つねに媒介的であり、また間接的であると考えられる。

しかし、言語はかならずしもそれだけとはいえない。たんに表現され、一種の音楽として機能する言語も可能だからである。つまり、《意味》を欠いた言語というものがありうる。たとえば、「オッペケペー」や「トコトンヤレ」、「エージャナイカ」、あるいは「ドッコイショ」や「ヨイショ」、「ヨッシャ」、「コラ」などである。これらは、もはやなんの意味ももっていないが、にもかかわらず、なんらかの行動に付随し、またこれ自体がひとに行動を促す場合がある。したがって、たんに無意味というわけでもないが、かといって、上記の《意味》をもってはいない。《意味》が他人に正確に伝達されるかどうかは、問題ではなく、あくまで、行動に連鎖して起こるのであり、どちらが主であるともいえず、また話す主体ということも、それほど問題にはならない。とくにはじめの三つは、自由民権運動や討幕運動に密接にかかわっているものである。こうした音楽としての言語は、出来事や行動と連動する、ある種の革命性をもっている。

言語がそのまま出来事であるような、そうした言語とは、いわば、音楽的言語であると考えなければならない。意味は、ひとびとの内面的な意識において実現され、そのことによって、伝達が完遂したとみなされる。だが、音楽的言語は、むしろ、意味を、人間の外側で起こる《出来事》であると考える。たとえば、熱湯をかけられて、「冷たい」といったとしよう。「冷たい」という語が、本来の《意味》とかけ離れていようと、なんらかの感覚を他人に抱かせ、他人に行動を促すかぎりで、それはやはり、出来事と直接に結びついた言語であると考えるほかない。

言語の本質が音声にある、といわれる場合、とくに注意しなければならないのは、こうした音楽性に重点が置かれている場合である。いわゆる「自分の話すのを聞く」という円環は、デリダがいうように、たしかに批判されねばならない。しかし、それは、あくまで、《意味》の共有を完全なものにし、それをもとに自意識的な共同体を構成する、という場合の円環である。上記のような音楽的な音声は、《意味》を欠いているがゆえに可能になっているのであり、そうした《意味》的音声とは区別されなければならないはずである。つまり、デリダは、そうした《意味》論的な言語を一掃しようとするあまり(相手/対象との同意や契約を必要とする意味論的な言語使用は、たしかに不完全なものに終始する)、音声のもつ革命性も一緒くたに批判してしまったわけである。

文学であろうが、歴史学であろうが、出来事と直接に結びついた音楽的言語というものを相手にするかぎりでしか、可能にはならない。意味論的な言語は、すべて、カント的な認識論に回収されてしまう。たとえば、「実態」を想定する実証主義や、「意識」を想定する構成主義的な思想史は、意味論的であるかぎり、不可能性や消極性を帯びないわけにはいかないのである。つまり、言語は、間接的で、媒介的で、つねに意志の疎通を不完全なものにする「絶望」的な装置として、ひとびとを悩ませることになるわけである。

ここから、言語の軽視が起こる。しょせん、言語は現実あるいは「実態」に対して二次的である、というものである。たしかに、意味と現実とを直接つなげようとするヘーゲル的な議論は、批判せねばならないし、その場合、言語を二次的なものに貶め、物自体と言語的認識を区別することは、有効である。だが、結果として、言語の音楽性が無視されてしまう。

わたしたちは、キューバの音楽であろうが、日本の音楽だろうが、アメリカの音楽だろうが、すべて、音楽として聴くことができる。演奏家は、音を出しているだけだが、にもかかわらず、聴衆は、それを音楽として聴くのである。意味論的な言語において、外国語がきわめて重大な障壁になるのとは、正反対である。言語においても、そうした音楽的言語というものがある(逆にいうと、意味論的な音楽というものもあって、日本の最近の歌謡曲は、きわめて意味論的なもの――つまり、意味が共有されていないと理解できないもの――に成り下がっている)。

疑い深い読者のために、音楽的言語の存在を証明する、ある事例をあげよう。むかし、ニューヨークにいたとき、ある黒人の母親が、自分の子供に「ウッジューシーザライツ」といっているのに出くわしたことがあった。わたしは、この音声を聞いて、母親が即座に、通りを飾るイルミネーションを見ろといっていることを理解した。というか、理解する前に、そのイルミネーションを見た。わたしは、そこで、意味を参照したわけでもないし、同じことだが、仮象を思い浮かべたわけでもない。「ウッジューシーザライツ」というリズムが、イルミネーションを見る動作と連鎖的に結びついたのである。

音楽的言語というものを考える場合、むしろ、外国語のほうが、《意味》がわからない分、容易なのである。文学や歴史も同じことで、《意味》がわたしたちに共有されていないほうが、かえって、その当の作品や記録を、出来事そのものとして受けとりやすいのである。翻訳にすぎないにもかかわらず、カフカやポーや、クライストやゴーゴリの小説(これらはわたしの趣味であげたにすぎない)がわたしにとって出来事であるのは、そういうわけである。

さて、議論の方向が定まっていないし、わたしのほうで定める気もないのだが、とにかく、わたしがいいたいことは、言語は、モノと同じ強さで、重大視されねばならない、ということである。けっして、モノや現実に対して軽視されていい言語ばかりがあるわけではない、ということなのだ。ドゥルーズは、こういっている。

言葉を重大に考えよう、ぜひとも言葉に頼ろう、それを他のものを含むすべてのものにならせるために。(ジル・ドゥルーズ「『牧神たちの五月後』への序文」)

HAVE YOUR SAY

_