テクストとしての憲法/声としての憲法

criticism
2007.05.04

憲法というテクストがある。これはわたしたちの外部にあり、国民投票という改変を経なければ、どうにもならない《もの》である。カント風にいうと、かの憲法は、一種の《物自体》である。もちろん、改変できる以上、「どうにもならない」という表現はいささか的を得ていないかもしれない。とはいえ、改変した時点で、それはすでに旧来のテクストではない。別のテクストとして、また新たな生を受ける。したがって、ただちに、それはまた“テクスト”――すなわち、《物自体》であることを始める。

わたしたちにとって、憲法が、そういう意味でのテクストであるかぎり、許されている行為がある。それは、想像力を駆使すること――すなわち、《解釈》である。《物自体》という観念、テクストという観念は、それに相対するわたしたちに、《想像力》という観念を与える。テクストが改変不能な《物自体》であればあるほど、余計に《想像力》という観念は不可避的にあらわれる。したがって、テクストが改変不能な外部であればあるほど、《解釈》という行為は不可避となる。

テクストが、たとえほんのわずかであっても、封じ込めているのは、過去の正確な記憶である。過去の正確な記憶を封じ込めているとしても、やはり、それはわたしたちには一部分しかみえていない。そうであるがゆえに、正当な《解釈》が要求される。ある対話において、ひとびとの言葉から、その内面を探るように、わたしたちは、テクストから、その可能な真意を《想像力》によって、引き出そうとする。つまり、テクストとわたしたちの分裂は、ちょうど、記憶力と想像力の分裂に符合する。テクストとわたしたちが分かたれているその境界線上をそっくりそのままなぞるように、記憶力と想像力は分かたれている(ここでは、マルクスの価値形態論を想起すべきだろう――記憶力と想像力の対は、本当のところは、あるひとつの商品がもっている使用価値と交換価値の対に等しくなっている。あるひとつの商品が交換を可能にすると同時に交換を謎めいたものにしているように、テクストは、読解可能性を開示すると同時に隠蔽している)。

テクストの正確な再現前化が求められること(科学的な知の要求に等しい)と、テクストが不可知の《物自体》である、ということとは、矛盾しない。むしろ、その対こそが、テクストを読解するわたしたちに想像力(だけ)を要求することになる。そして、ここが重要な点だが、テクストという《物自体》は、かえって《想像力》を無際限にする。こうしてテクストは、完全にオープンなものになり、どのような《解釈》も許されることになる。

すでに、前政権によって、現行の憲法においても、海外派兵が可能であることが実証されている。すなわち、テクストが主張しているはずの内容から、完全に真逆の解釈を導き出すことすら、可能なのである。従軍慰安婦にせよ、南京大虐殺にせよ、これらは、想定する程度に違いはあれど、どう考えても事実である。だが、それらを実証しているはずのテクストは、それがテクストであることによって、真逆の可能性すら主張されうる。たとえば、南京大虐殺を伝える新聞は、事実を語っているのではなく、国民の鼓舞という目的にしたがって作られたテクストである、という風に。歴史学者であれば、誰でも知っているはずだが、同じひとつの史料(テクスト)からは、たいてい、二つの異なる解釈が導き出されている。しかも、それらは、おおむねまったく相反する解釈なのである。それは、先の戦争にかかわる領域ばかりではなく、どのような領域においても妥当する。《テクスト》という思考を除かぬかぎり、わたしたちの思考から、こうした《解釈》の可能性を取り除くことはできない。権利上、それは可能だし、またそうでなければならないからである。その意味では、“平和のために戦争をする”、ということさえ、可能になる。ここでいう「平和」が、テクストとしての平和であるとすれば、それは当然の権利なのだ。テクストを正確に、かつ精緻に読むことが、かえってテクストを逆転させ、テクストを脱構築する。それは、たしかに、正しい。……

さて、発想を転換しよう。憲法が、わたしたちが解釈すべきテクストではないとすればどうか。といっても、テクストではない憲法など、にわかには想像し難いかもしれない。だが、わたしは、《言説》としての憲法、というものも、当然ありうると考える。それはどういうことか。

わたしたちは、もはや、1945年当時、かの憲法が生み出され、かつ受け容れたあの瞬間のひとびとの真意を、正確に受けとることはできない。その真意は、平和な時代を生きたわたしたちの想像を絶しているし、また、当然、記憶の範囲も絶している。憲法の周辺には、さまざまな史料があり、かの憲法の成立する背景をいろいろと探ることはできるだろうが、そうした瑣末な史料も憲法も含めて、いずれにしても、誰でも知っているように、《読むこと》以外にその手段は認められていないように思える。

実際、誰もが知っているように、声は、失われるものである。戦争の体験者がどんどん減少していく昨今にあって、それは、必然的な事態である。それゆえ、もはやたんに声に頼ることはできなくなっている。だからこそ、テクストとしての憲法、というわけだが、だからといって、憲法を、たんにエクリチュール(文字)の問題として、テクストとしてのみ把握するのも間違っている。むしろ、かの憲法は、平和への意志であり、平和の言説であり、そしてやはり《声》なのである。1945年当時のひとびとの記憶力と想像力とをともに封じ込めて過去に消え去った《声》なのである。もちろん、こうした《声》はすでにイデアであり、イデアそのものであり、それゆえ、わたしたちからは失われている。文字は、ここでは、エクリチュールを根源にもつテクストではなく、《声》のドキュメントである。それは、いまここで語られ、現にいま聞いている声ではなく(その意味での声は、たしかにエクリチュールと区別できない領域をもっている)、消え去ることによって定義されるような、そうした《声》である。エクリチュールのもたらす、蓄積される時間概念とは異なる、絶えざる現在の反復という時間概念によって定義される、そうした《声》である。しかし、消え去るといっても、この《声》が意志していた事態を、わたしたちはすでに知っている。というよりも、消え去るがゆえにこそ、わたしたちと彼らとのあいだに、真の意味で出来事が生成するのである。それは、たんに想像力によるのでもないし、たんに記憶力によるのでもない。その両方を駆使することで、この意志を、この《声》を、聞くこと――つまり、出来事を生成させることができるはずだ。

私見によれば、かの憲法が主張しているのは、戦争をしないことではない。むしろ、わたしには、《人間》という動物が、必ず戦争をしてしまう動物である、ということを主張しているように思える。そうでなければ第九条は意味をなさないからである。テクスト以前のこうした前提(という言い方は明らかに誤解を生むだろうが)があるからこそ、第九条は可能になっているのだ。第九条が可能な《言説空間》とは、人間と戦争とが、分かち難い紐帯によって結び合わされているような、そういう空間なのである。

その点を考えれば、けっして、テクストがあらゆるものに先立つ根源なのではないし、声はつねに‐すでにエクリチュールによって先取りされてもいない、ということもわかるだろう。こうしたテクスト以前の前提を、わたしはフーコーの言葉を借りて、《言表》と呼ぶ。アメリカ人であろうが、日本人であろうが、《人間》は必ず戦争を行なう。第九条は、そうした出来事の正確な《言表》にほかならない(1)。したがって、第九条については、次のように考えるのが正しい。すなわち、たんに戦争をわたしたちの手の届かぬところへ遠ざけようとしているのではなく、戦争をかぎりなくわたしたちに近づけながら、同時にかぎりなく遠くへと追いやっている、と。

先の戦争は、さまざまなことを実証した。戦争は、けっして仕掛けるものではなく、あらゆる意味で、仕掛けさせられるものだということ。そしてにもかかわらず、戦争は、仕掛ける側になった時点で敗北であるということ。また、武器を持てば戦争を行なってしまうということ。そして、戦争という手段によっては、家族を守るという目的はけっして果せないということ。そればかりか、たんに家族を破壊する帰結をもたらすのだということ。家族を守るということと、国家を守るということは、同じではないこと。国家の死が個人の死をもたらすのではなく、個人の死が国家の死をもたらすのだということ。下からであろうが上からであろうが、国民と国家の統合は必ず夢想に終るということ、などである。

戦争とは、そうした事態の実証過程にほかならない。そして人間が戦争を避けられない動物であるという前提があるからこそ、第九条は、戦争を《可能なかぎり》未来へと遠ざけるために生み出されたひとつの《声》でありうるのである。ここでは、第九条は、テクストではなく、だから自由な《解釈》の余地はない。言説としての第九条は、上記の《言説空間》によって、すでに規定されているからである。ここでは、真実は、一でもなければ、多でもない。また、一にして多であり、多にして一というわけでもない。真実は、一であり、また同時に、多なのである。それこそが、《声》のもたらす、新しい歴史の空間である。

問題は、わたしたちが、その《声》を聴きとる耳をもっているかどうか、ということだけである。わたしが、憲法を読むたびに、《読む》という行為に反して聴きとるのは、1945年というあの瞬間が、わたしたちに、時空を越えて送る悲痛な《声》である。ひとは、未来永劫戦争から解き放たれることはなく、国家の論理の狭間で、つねに戦争の脅威におびえて生きるほかないのだという、そうした悲痛な、そしてささやくような《声》である。もちろん、その《声》は、わたしが聴いた瞬間に、つねに‐すでに、消え去っている。ただ、手許には、エクリチュールという痕跡が残っているばかりである。それは、たぶん、なにかの幻聴であり、ひとかどの紳士ならば「形而上学」といって批判するような、つまり、あらゆる言葉を《声》とみなすような、言い換えれば、言葉をそのまま出来事とみなすような、一種の狂気であるにちがいない。

憲法を変えてもいいし、変えなくてもいい。改変不能なテクストとして、後生大事に守り続けてもかまわないし、自由に解釈可能なものとして、ときと場合によっては変えてもいいような、そうしたテクストとして理解するのもかまわない。ほとんど狂気と隣り合わせであるような、《言説》の領域において、ただいえることは、1945年に生み出されたかの憲法が、おそらく世界史上もっとも戦争を身近に体験した世代によって、わたしたちのいる現在‐未来に対して送られた、しかもすでに失われたメッセージであるということだ。わたしたちは、それが狂気の可能性を孕んでいるのだとしても、その《声》を聴きとっているはずなのだ。そして、憲法をテクストとして読む前に、まずはテクストの行間から、エクリチュールの間隙から漏れ聞こえる、そうした《声なき声》のことを考えてみてほしいのだ。

【註】

  • (1) リアリストを自称するたいていの改憲派は、テクスト以前のこうしたリアリスティックな前提――人間は何らかの手段で必ず戦争を行なう動物であるという前提――に対して、あまりにも盲目である。彼らにとって、第九条は、たかだかテクストであるにすぎないのである。ところで、公平を期していっておけば、第九条を護憲派が《物自体》として扱うかぎり、かえって他方に無限の解釈を認め、そしてそれを事後的に改憲につなげようとする右派を生み出すのも必然なのである。言説の観点からみれば、左派の方が相対的に正しいが、そうである以上、左派を気取るのであれば、テクストという思考と、自覚的に手を切るべきではないだろうか。

HAVE YOUR SAY

_