音楽の秘密、あるいはケージの外

criticism
2008.08.28

子供のころ、雨が降ると、いつもショパンの『雨だれ』を思い出した。雨の日の気だるい午後、ピアノに頭をあずけながら、雨の音にあわせて鍵盤を叩くショパンを想像した。自分も、雨が降ると、ピアノの鍵盤にゆっくりと指を乗せ、同じ音を何度も何度も鳴らしつづけて、親を訝しがらせた。また、スティーヴィー・ワンダーという盲目の歌手が、雨が降るとなにを思うかと聞かれて、母の作るポップコーンの音だと言ったのが、少年のわたしに非常に強い印象を残した。それでかは知らないが、わたしは、雨の音は、すでに音楽なのだと考えるようになった。雨が地面や屋根を叩く意外なほど軽快で楽しげなリズム、雨が森を抜ける淑やかなメロディ、それらは、たしかに、よく耳を澄まして聴けば聴くほど、音楽だった。だから、もちろん、子供心に雨は好きではないと思い込んでいたが、だからといって、雨の音まで嫌いになることはなかった。

ジョン・ケージというひとがいる。ピアノの鍵盤の上を猫に歩かせて作曲してみたり、ピアノをおもむろにハンマーで叩き壊して音楽だと言い張ってみたり、サティの『ヴェクサシオン』という曲の840回リピートという指示をまじめに実践してギネス・ブックに載ってみたりしたひとのことである(彼の思想については、インタヴュー集である『小鳥たちのために』(青土社)を見るといいだろう)。わたしが彼のことを知ったのは高校のころで、大学に入り、なんとなく、知的な好奇心で、つまり教養として、聞くようになった。彼の音楽というよりは、パフォーマンスが、アナーキーな印象を与えてわたしに好感を持たせたが、音楽そのものについては、ワーグナーで頂点に達した西洋音楽の、理論的な飽和と崩壊の最終局面という実感を拭い去ることができなかったように思う。

とはいえ、初期のプリペアド・ピアノの作品は、とくに好んで聴いた。これらの曲は、そうした一連の理解やちょっとした反発とは隔離されて、感覚的にぴったりきたからである。だから、それを演奏した高橋悠治のディスクを、尊敬する知人から借りて以来、一時期はあの器楽曲が、自宅でも車でも、ヘヴィ・ローテーションでかかっていた。わたしは、あの曲を、歌いながら聴く。つまり、非常にメロディアスだと感じるのだ。高橋悠治の明晰な演奏――すべてが装飾音であるがゆえに、逆にすべてが主旋律に聴こえる瞬間がある――も手伝って、あのディスクは、わたしを古代ギリシアに運ぶ。彼の演奏は、数、そしとくに音楽に、神秘的な要素を認めていたピタゴラスのことを想起させた。3.14159265358979……円周率を暗誦したくなった。

しかし、いつしかケージも聴かなくなった。むしろ、鳥が囀り、蛙が鳴き、蝉や蟋蟀が集くのを聴いた。近くの雑木林や空き地の雑草が、沈黙のなかで歌うのを、孤独な夜の静けさの底で、たしかに聴いた。そうしてケージの評価は一変した。ケージの音楽を聴かなくなってはじめて、いたるところで音楽が鳴り響いているのだ、というケージの主張が理解できるようになった。彼は、わたしが子供のころに知っていて一度は失ってしまったものを、終生つかみ続け、失わなかったひとだった。音楽は、はじめからおわりまで、自然の側に属していたのである。

江藤淳は、サルトルが、音楽を、人間の外側にある“事物substance”であるかのように語ったことを批判して、このように言っている。

遺憾ながら、この考え方はまったくあやまっている。おそらくこの高等師範学校出身の秀才哲学者は、自らピアノをひき、トランペットを吹き、ギターを奏でたことがないに相違ない。すでに第二章で指摘したように、音楽をまったく外在的な「事物」と考えることが根本的な誤解である。それは「持続するなにものか」ではあるものの、「事物」ではなく、「私の前」にもありはしない。逆に、それは「過程」であり、私が「そのなかに」参加して――直接演奏しないときでさえも――ともにつくりだしていくものである。(江藤淳『作家は行動する』)

音楽とは、楽器を演奏し、そしてそれを聴く者とのあいだに構成される、「過程」である(1)。こうした考えには、ソシュール的な構造主義言語学や、あるいは時枝誠記風の「言語過程説」への回帰がある。時枝は、言語が音声であり、したがって自然科学の側にある、という発想を強く非難したひとである。江藤もまた、言語や音楽を、人文学の方に振り向けたくて、仕方がないのだ。彼のようにいうなら、音楽は、ソシュールのいう「ラング」に非常に似通ったものになるだろう。そして、もしかしたら、そうした定義は、音楽を、演奏する者と聴く者、言葉を語る者とそれに意味を与える者とのあいだで構成される文化的な差異を越えられない、ナショナルなものにしてしまうかもしれない。

認識論者は、音を音楽であると認定する精神の存在を高唱する。そして、音楽は、自然にあるのではなく、われわれ人類の脳のなかに、つまり認識が拵え上げるもの――虚構の一種だと主張する。したがって、音楽は、人間の存在なしには、鳴り響かない、徹頭徹尾、「過程」的な、なにかなのだということになる。そうして、音楽は認識の産物となり、文化の産物となる。音は、それを聴く認識によって「音楽」と雑音とに振り分けられ、世の中には、「音楽」と雑音の両方があふれることになる。人間の認識を漏れたというだけで、ある音は雑音となり、それゆえ、「音楽」が巷に溢れれば溢れるだけ、雑音もまた生み出されるということになる。なぜなら、「音楽」とは、結局、音を選別し、一方を排除することによってしか成立しえないからである。

江藤がまちがっているとは言わない。だが、わたしの考えに近いのは、サルトルである。ただし、わたしなら、「事物substance」という言い方はしない(この言い方は、たいへんサルトルらしい)。そんな大それたものではなく、もっと素朴に、「自然」と、いうだろう。われわれの知っている、そしてわれわれの知らないあらゆる物理法則を引き連れて、ピアノの鍵盤を指が叩くとき、それは、おそらく、すでに音楽であり、また音楽でなければならないのである。ショパンが、雨の音と戯れながら、たったひとりで恍惚とピアノの鍵盤を鳴らしていたあの瞬間、音楽がまだ鳴り響いてはいなかったと考えることが、わたしにはできない。ほとんどの人間が聴くことのできない、運命の扉を叩くあの音を孤独のうちに聴いたベートーヴェンが、音楽に触れることができなかったと考えることが、わたしにはできない。

音楽は、人間の外にある「事物」や「実体」ではない、というのは本当かもしれない。だが、だからといって、人間の内部にある「過程」や「認識」だ、というのがただちに本当だということにはならない。西洋の十八・十九世紀の音楽家や文学者、あるいは二十世紀はじめの日本の文学者たちは、どうしてあれほど屈託なしに《自然》を賛美できるのだろうか。音楽をこれほどすばらしいものにした古代ギリシアのひとたちは、なぜ、「自然に従って(カタ・ピュシン)」生きることを、あれほど強く推奨したのだろうか。なぜ、自らの「理性=言葉(ロゴス)」を、「自然(ピュシス)」にまで高めようと、あれほどの努力と時間とを費やしたのだろうか(2)。そしてまた、どうして、自然を賛美する者たちばかりが、本当の《作品》を作りあげることができたのだろうか。

あらゆる音をなんらかの括弧に入れることによって、音は「音楽」になる、というテーゼがある(3)。それが正しいとしよう。そして、人間認識が拵え上げるそうした認識が、《自然》からは隔離されている、というテーゼがある(4)。それも正しいとしよう。実際、わたしもそう思うことがある。だが、音楽を高めた古代ギリシアのひとたちや、十九世紀を前後する世紀の音楽家たちの、あの屈託のない、直裁な《自然》崇拝は、わたしを戸惑わせる。そうした《自然》礼賛の直線性は、認識によって「屈折」させられた音こそが音楽であるという思考とは、あまりにもかけ離れているようにみえるのだ。

今一度、ケージの音楽を思い出そう。それは、わたしが誤解していたような到達点ではなかった。徹頭徹尾、音楽のはじまりだった。それも、万人に開け放たれた門であり、いまここにある、起源なき起源だった。ケージは、演奏の周囲で鳴る「雑音」も、音楽として聴くことを、ひとびとに強いた。ケージは好んで休符を演奏したが、この休符のあいだ、音楽が鳴り止むことなどありえない。ケージは、生涯をかけて、そのことだけをわれわれに教えようとした。それは、むしろ、ひとが「音楽」だと思い込んでいるものを疑い、そんな括弧など外してしまったところにこそ、本当の音楽がある、ということではなかったのか。

おそらく、本当の音楽家は、拵えるひとなのではなく、より聴くひとたちである。耳を澄まして自然の音を聴こうとするひとたちだけが、音楽の秘密をすこしだけ知ることができるのだ。彼らは、作ったのではない。ただ、伝える者たちだ。差異につぐ差異を折り重ねてきた自然の奏でる音楽に、さらなる音を加え差し引いて、われわれ音楽に疎い者たちにも聴けるようにしているのだ。たとえば、グレン・グールドの演奏が、あれほど創造的に聴こえるのは、彼が、楽譜という痕跡にこだわるよりも、自然に等しいバッハたちの痕跡なしの音楽を、もっと聴こうとしているからだと、わたしは思う。彼はバッハの声を聴き、そして歌いながら演奏する。彼のハミングのあいだから漏れ聴こえる演奏は、創造的でありながら、それでいて、もっともバッハに近いと思わせてしまう。「実証」とは無縁の彼の演奏は、にもかかわらず、きわめて真理に似通っているようにみえる(もっとも、「実証」は、痕跡の周りをめぐって、正確な痕跡を再生産するばかりなのだから、真理と関係しないのは当然なのだが)。

江藤の言うように、音楽は、たしかに「実体substance」ではないかもしれない。しかし、そうした問いは、たとえばイェルムスレウにしたがって(5)、われわれには、そんなことは問題ではないのだ、と指摘して済ますことにしよう。あるいは、小林秀雄にしたがって、「事物」であるとか、「過程」であるとか、言い換えれば、世界が存在しているとか、存在していないとか、そんなことは、どうでもいい問題だと言って、済ませてしまおう(6)。音楽は、われわれの外にあっていつも静かに、とてつもなく静かに鳴り響いている。人間のつくるそれがあるとすれば、「実体」というほど大それたものではない。せいぜい粒子のようなものだ。自然の奏でる音楽に、さらなる音を付け足したり、差し引いたりしながら、自然の音楽をわれわれに伝えているものこそが、それなのである。ひとのつくるそれは、いつも、自然への賛歌であり、《音楽とは、そのはじまりから、(つねになにものかの)装飾音なのだ》。

われわれは、すばらしい音楽に対して、喝采や歓声を抑えることができない。だが、それもまた、すでにして音楽である。その点では、罵倒でさえ、音楽でありうる。音楽は、そのはじまりがはじまりではなく、その終わりが終わりではない。江藤の見解に反して、はじまりよりも早く、すでに音楽は始まっている。つまり、「私の前」に、音楽はある。そしてもちろん、音楽の終わりの、さらにあとには、喝采や、すべての声を秘めた黄金のような沈黙がある。ライヴの熱狂それ自体が音楽であるのは、演奏家と聴衆とのあいだに、ただ「持続」する閉じた共同体ができるからではない。演奏家や聴衆といった主体など越えて、彼ら自体が、すでにある音楽の一部をなすからである。

それは文学も同じことだ。文学にとって、「、」や「。」は、文法上の切れ目や、文章の区切りではない。むしろ、それは、次の音を待っている休符であり、したがって、それもまた、沈黙という音楽である。おそらく、古代において、こうした句読点は、文法とは無縁のものだったにちがいない。「、」は、短い休み、八分休符のようなものであり、「。」は、すこし長めの休み、すなわち四分休符のようなものである。たとえば、江藤が露骨に嫌悪を示した折口信夫の天才的な文章は、あきらかに、こうした意図に貫かれている(こうした用法は、江藤のいう「音楽」とは異なる。江藤にとって、句読点は、「持続」を構成する端と端でなければならなかったはずだ)。

音楽であろうが、文学であろうが、それらが本当にその名に値するものであるならば、内的な、閉じた円環のなかで構成される意味論とはまったく無関係である。なぜなら、すでに、われわれの外で、われわれよりもずっと早くに、歌はもう鳴り響いていたからだ。音楽や文学は、そのはじまりや終わりにあって、自然とつながり、自然の一部をなしているのでなければならない。それが、鳥を愛したオリヴィエ・メシアンやケージ、あるいは蛙を愛した草野心平がわれわれに教えようとしていたことだったと思う。十九世紀の詩人たちの、《自然》への屈託のない賛美を、われわれは忘れてはならない。そこでは、科学でさえも、歌だったのだ。

太古の地球では、人知れず、雨が降っていたという。そこでは、きっと、今と変わらぬ音楽が鳴り響いていたことだろう。木星の衛星タイタンには、今も雨が降っているという。誰もいない、陽の光の遠い彼方の空の下、そこにも、地球と変わらぬ音楽が鳴り響いていることだろう。

わたしのなかの少年は、そんな音楽が静かに響いていることを、確信している。だから、わたしは、音楽を感じるたびに、涙が出るようになった。鳥や蛙や虫や少年たちが知っていたことを、わたしも、ようやくにして知った。われわれは、《ケージの外》に、出なければならない、そして歌を歌うのだ。……

 

【註】

  • (1) 若い柄谷行人も、江藤の音楽=「過程」説に賛同している(「江藤淳論」)。私見によるなら、若い頃のユーモアを失わない最近の柄谷も、文学あるいは芸術を「虚構」とみなしている以上、この考えを変えたとみなすのは困難である(Cf. 『倫理21』平凡社、2000年)。
  • (2) ゼノンは『人間の自然本性について』のなかで、人生の目的とは「自然と一致和合して生きること」であると言っている。それについて、クリュシッポスはこう言っている。動物たちは「自然に従って」生きている。ところで、人間は、「理性(言葉=ロゴス)に従って正しく生きること」が、「自然に従う」ということの意味である、と(ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第七巻第一章)。この定義からすれば、自然に従って生きている動物は、その分だけ、すでに音楽の秘密を知っていると考えることは不可能ではない。
  • (3) たとえば、前掲柄谷『倫理21』。「たとえば、或る人殺しがいるとします。それは、法的・道徳的に非難されますが、同時に、それは趣味判断の対象です。映画や小説では、しばしば犯罪者やヤクザが主人公となります。人々は、日常では嫌悪するはずなのに、映画や小説では、彼らを支持し、自己同一化したりします。これは美的判断です。その根拠を、カントは「無-関心」性に求めました。それは、道徳的・知的関心を括弧に入れることです。人がこのような映画や小説を楽しむというのは、――あるいは時には、現実の事件に関してもそのような見方ができるということは、――実は、そのように文化的に訓練されたからです。…カントは、美的判断を、関心を括弧に入れることにおきました。ある物が芸術であるか否かは、それについての諸関心を括弧に入れることによってのみ決められる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がありません。それに対する通常の諸関心を括弧に入れて見るということ、そのような「態度変更」が或る物を芸術たらしめるのです」(65-7頁)。
  • (4) たとえば、柄谷「再論日本精神分析」(『批評空間』第3期第3号、2002年)。「カントは、対象を形成する主観的な(隠された)形式をとりだした。しかし、そのことがあかたも世界を主観が構成するかのような観念論を引き起こしたとき、彼は急遽、それを批判したのである。すなわち、彼は、主観の外に物が存在することを疑ったことはないといったのだ。…われわれが主観的な「形式」によって外的な対象を構成するということは、外的なもの自体がわれわれの構成と無関係に存するという厳たる事実を斥けるものではない」(44-5頁)。
  • (5) Louis Hjelmslev, Prolégoménes á une théorie du langage. 「不必要な仮説を避ける科学において、時間的にせよ、階層的にせよ、内容の実質〔substance〕(思考)や表現の実質〔substance〕(音列)が言語に先行すると考える根拠はない。ソシュールの用語を保持し、ソシュールが提供する材料に従うならば、われわれがとるべき説は、実質は形式に完全に依存しており、それに独立した存在を認めることはできないということだ」(p.68)。
  • (6) 小林秀雄「Xへの手紙」。「おれはこの世界の存在をあるいは価値をいささかも疑ってはいない、というのはこの世界を信じたほうがいいのか、疑ったほうがいいのか、そんな場所にはてしなく重ね上げられる人間認識上の論議になんの興味もわかないからだ」。
[amazon asin=”4791750829″ /]
[amazon asin=”B0006BA09O” /]
[amazon asin=”B00004S363″ /]

HAVE YOUR SAY

_