弁証法の彼方へ

criticism
2009.08.28

われわれの思考は、アドルノやデリダ、そしてハバーマスのあいだで揺れ動いている。弁証法に反対する人も、賛成の人も、結局は、彼らのつくる三角形のなかで藻掻いているにすぎない。全体化に強く反対したアドルノが、差異化の運動そのものである否定弁証法に可能性をみたのは、時代の悲劇だ。それは、極度の屈折である。われわれの世代は、最大限の敬意を払うべきアドルノの屈折した叫びによって、始まったのである。

S=X。しかし、「真」の命題はついに存在しない。世界の表現である詩がついに野蛮のまま終わるように、対象Xが存在するかぎり、それ(ら)は主体に対する不断の異議申し立てである。アウシュビッツの後で、詩を書くことは野蛮である、という命題でさえ、その真を保証されえない。かくして、詩が力をもつこともまたあるだろう。芸術がすべての力を失うぎりぎりのところで、“否”によって、詩を逆説的に、アイロニカルに救おうとしたアドルノ。否こそが、ひとびとのもつ最強の武器である……。かくして、われわれの世代のすべての力が、この“否”になだれ込んでいく。

しかし、わたしにとって、もっと不思議なことは、次のことである。偽であるということがどうして存在しうるのか。そして、そのことの実践的な言い方である《嘘》は、いかにして《存在》しているのか、ということである。《嘘》は、悪しきものであるにもかかわらず、悪い結果をもたらすと決まっていない。それは本当に不思議なことなのだ。

詩とは、真か偽か、という問いの前では、つねに偽であろう。裁判官の前で、科学の前で、詩はついに偽でしかありえない。世界の表現である詩は、表現である、というただそれだけの理由から、否を突きつけられる嘘なのだ。しかし、渇きを覚えた人間に梅の実を想像させることが一瞬の潤いをもたらしうるように、偽が力をもつことがありうるというのは、いったいどういうことなのか。

驚くべきストア派のひとたちは言っていた。偽は、真になるものとならないものがある。それにひきかえ、真は真であることしかできない、と。わたしは彼らの物言いに笑いを禁じえない。心の底からすばらしい表現だと思う。われわれは、彼らに倣って、現代の人々がすべて虚構とみなしている表象を、二つに分けなければならない(ストア派の言い方に倣うなら、よい表象をパンタシアと呼び、悪い表象をパンタスマと呼ぶ)。前述のドイツ人とフランス人の作る三角形から一歩踏み出して、《どのような嘘が真でありうるのか》を思考しなければならない。別の言い方をすれば、言葉がいかにして出来事となるのか、それを思考しなければならない。

そのためには、すでに真となった表象をそこから取り除いておく必要がある。それらは、すでに役割を終えているからだ。本当の真理は、アインシュタインや湯川秀樹がそうであったように、すべて、《予言》の形で現れる。それらは、別の側面からみれば、かつて《嘘》だったものであり、しかも《真》となりうる《嘘》だったのである。狼少年の嘘は、現実には、ある種の宙吊りの結末しかもたらさない。つまり、つねに未来に真となりうる可能性を残し続ける。したがって、嘘であるかどうかさえ、実際にはわからない。「彼の言っていることは本当ではない」という「否」によっては、そうした宙吊りを大地に引き摺り下ろすことはついにかなわない。

歴史は、それが最終的に肯定されるにせよ、否定されるにせよ、弁証法の運動の範疇にある概念である。そこから踏み出すためには、予言を自己実現する悲劇が必要とならざるをえない。天才ソフォクレスが表現したのは、それである。オイディプスは、自らにまとわりつく運命の糸を感じていながら、歴史の宙吊りを克服するために、予言の自己実現を意志し、文字の世界からおさらばするために、自分の目を突いて光を奪ってしまう。そして王であった彼は、ひとりの人間として、しかも最後の人間として、地上に降り立つ。これが文学である。アドルノやデリダ、そしてハバーマスは、たしかに真摯なひとたちだった。だが、文学は、彼らの彼方にあるように、わたしには思える……。

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