鏡像の破れ(ラフ)

criticism
2008.11.15

「鏡像」という言葉を聞くと、磁力のことを思い出すのだが、今日ではもっと別様な意味で、ラカン風に使われる。「鏡像段階」である。厳密な自己とは異なる鏡に映った像、すなわち虚構としてのイメージ、それを自分自身であると認識すること、このことが人間を構成する。

こうした自己回帰的な――といっても、その自己はあくまで虚構としての自己なのだが――運動は、わたしには要するに古いアイデンティティ論の変奏にしかみえないし、もっと悪い意味で、古いカント主義的な議論であるとしか考えられない。それは、鏡像段階を抜け出ねばならないとかそういうことではなくて、この論そのものがどうしようもない、というのである。

虚構としての自己に回帰するという先験的な議論は、先験的な自己を事後的に作りあげるという不毛な概念に帰着する。こうした議論そのものが、わたしは国家主義的であると感じてしまう。むしろ、わたしはこう考える。鏡をみる自己Aは、鏡に写った自己Bを模倣することによって、自己Cとなる。鏡を見るという行為がもたらすのは、いわば模倣と差異化の運動である。鏡に写った自己Bを自己Aが演じ、自己Cに《なる》こと、そうした行為を促すのが、鏡像の真の作用である。したがって、鏡に写った自己Bと、自己Aとのあいだに構造はできない。現実的には、A…B…C…という、一種のセリーの運動と捉えるほかない。このことからするに、《鏡像》は、べつにプラトン的な芸術=模倣〔ミメーシス〕論を遠ざけてはいないだろう。しかもこちらの方が実践的な観点からいえば正確である。

一階にいた人間Aが、二階に上がって人間Bとなり、さらに一階に下りてきたとしても、人間Aに戻るわけではない。新たに人間Cとなる。《一階に下りる》という経験は、ここでははじめての経験だからである。したがって、自己同一性が前もって維持されないかぎり、一階に下りるという経験を自己への回帰と捉えることはできない。この移動に、一階-二階という構造は成立しない。もとの場所に回帰するのではなく、たんに別の空間への移動である。

二階建ての建築物とは、権力者にとっては、高みに昇ることを意味し、それが二階建ての構造物であるということに意味があるのだが、そこに住む人間にとっては、実践的には、「展望」ということはあるとしても、空間の拡張以外の意味はあまりない(展望だけが目的ならば、一階は不要である)。《内在的には》、それは空間の拡張以外のものではなく、それが二階建てであるということは、《超越論的な》視点なしには不可能である。問題は、なにゆえこうした超越論が必要なのか、それは権力的な構造を維持するという以外になんの意味があるのか、ということである。

構造をセリーに分解する実践のなかでもたらされる、構造の破れのほうが、構造を維持しようとする今日流行の議論よりは、よっぽど重要であるように思うし、繰り返すが、たんに議論として正確であると思う。わたしはなにも、鏡像や二階建ての建築物を否定しているのではない。ただ、現実的にいって、それらが、構造をなすという保証は、なにか曖昧さを糊塗する解釈をしないかぎり、どこにもないということだ。

4 Comments

  • takeshi yoshi

    2008年12月2日(火) at 1:31:26 [E-MAIL] _

    たけぴょん的にはまじで面白いなあ。
    つまりミメーシス論と出来事の関係性の再検討だよね。

    これを、通用するように展開していくとどうなるか。
    応用問題
    ■以下の文を解釈、展開してみよ。
    「各個体は、諸特異性を凝縮する鏡のようなものになるだろうし、各世界は鏡の中の隔たりになる」(『意味の論理学』下巻p10
    なぜ「鏡」なのか?


    上巻P169
    「反対に(「深層」のアルトーではなく)キャロルは、自分の非-物体的な意味の言葉にふさわしく、こどもを待ち望む。キャロルが待ち望むのは、母の身体の深層を離れて、まだ自己自身の身体の深層を発見してはいない時点と時期のこども、また、自分自身の涙の池の中のアリスのように、水面にちらっと
    現れる短い時期の少女である。」
    「少女だけが、ストア派を把握し、出来事のセンス(意味)を持ち、非物体的な複製を反転する」(P32)

    なぜ「水面にちらっと現れる短い時期の少女」なのか?
    鏡像こそがリアルなのか?それともミメーシスがさらにリアルを作っていくのか?それと出来事とのかかわりは?「非物体的な複製(註:基本的には鏡に映った複製・「非物体的」にはそれ以上の意味があるけど)を反転する」とは?ミメーシスのミメーシスが出来事を作るのか?模倣からリアルが出るのか?「反転」とは?

    ■下巻p111
    キャロルの有名な少女の写真について

    「脱性化のこの過程について、表面から表面へのこの飛躍については、われわれはほとんど何も語ってこなかった。ルイス・キャロルには脱性化の力能だけが現われている。その力能は、食べることー話すことのために、
    基底のセリー(秘境的な語が包摂するセリー)を脱性化する力そのものであり、しかしまた、性的な対象、少女を維持する力でもある。神秘はまさにこの飛躍、表面から表面へのこの移行にある。そして第一の表面の上を第二の表面が移行する時に、第一の表面がなっていくものが神秘なのである。物理的なチェス盤から論理的なダイアグラムへ。あるいはむしろ感覚的な表面から超感覚的な乾板へ。この飛躍のなかでこそ偉大な写真家であるキャロルは、ある快楽を完成する。
    キャロルはその快楽を無邪気に宣言する(…アメリー、君は私のものだ)」

    ・・・所詮「出来事」とはキャロルが撮った少女の写真の中とかにしかないのもなのか?あるいは映画や絵画やアートの中しか。「表面から表面」への飛躍とはその程度のものなのか?だとすると「萌え」とどう違うのか?

  • tyoshinaga

    2008年12月2日(火) at 3:24:53 [E-MAIL] _

    問い:
    さらに言えば、岡崎乾次郎は、さらにいう。
    以下の文を展開してみよ。

    「実際にわれわれが考察し、知覚している空間には、
    「鏡」というー世界を本物と偽に分かるようなー超越的な審級も装置もいうまでもなく存在しない。(・・・)
    たとえばグラッソとマッテオの関係はたしかに鏡像関係に似ていたが、もっとも確実で本質的な問題は、そこに鏡など「存在しない」ということだった」(『経験の条件』PP264-265)

  • kio

    2008年12月2日(火) at 18:55:33 [E-MAIL] _

    たけぴょんさん、浩瀚なコメントありがとうございます。
    ぼくは『意味の論理学』はあまりちゃんと読んでないんですけど、引用してくださった部分だけでも、ドゥルーズの言いたいことはだいたいわかります。

    まず重要なことは、「なぜ鏡なのか」というたけぴょんさまの問いは、鏡が目的となる点で、誤った問いかけであるということです。重要なことは、鏡に写った像ではなく、鏡に写った像が、なにを意味するか、また同時になにをひとに促すかの方が重要です。

    犬Aが、鏡に写った犬Bをみて吼える(犬Cとなる)ように、少女Aは、鏡に写った自分Bをみて髪を結い直し、眉を整え、口紅を塗りなおす(少女C)。つまり、鏡に写った己Bを虚構の己として再認する(A⇒B⇒A’の運動)のではないし、化粧することで、「よそ行き」用に用意された外面を装うのでもない。化粧ということに慣れていない、そしてまた真の意味で化粧することを知っている少女は、ふつう、鏡の前で、さらなる変身を遂げる。第一の表面から、第二の表面へ。それは、物自体に対立する虚構、ホームに対立する「よそ行き」の自分を拵え上げることではなくて、端的に模倣=差異化の運動です(A⇒B⇒C)。

    ドゥルーズの言うのは、たぶんだいたいこんなところでしょう。そして出来事とは、こうした表面の表面上の移行を指す。それに対して、シニフィアンという思考は、どうしても、前もってシニフィエが用意されているという前提を作り出してしまう。古いシニフィアンAから新しいシニフィアンBへの移行が、古いシニフィアンAを遡って(先験的に)シニフィエ(意味)に見せるということです。しかし、もっと根本的に考えると、じつは、古いシニフィアンは、時系列的には、むしろあとから発見される。要するに、古いシニフィアン(シニフィエ/意味)の方が新しいのです。本来の自己=意味は、むしろあとから見いだされる、《新しい経験》だというわけです。新しい経験、すなわち、出来事です。

    シニフィアン=シニフィエの二重構造はある特別な空間(少女的空間)の中ではシリーズに変換されてしまう。言葉の深層において探られるもうひとつの言葉が「意味」と言われるのだとすれば、言葉から言葉への移行(それは少女たちが交わす音声=音楽的会話そのものです)は、「意味」を出来事へ変換する。

    そして、特別な空間とは、非カント的で、それでいてもっともありふれた空間のことです。出来事は、アートのなかにしかない、ということではありません。というか、その問いかけも、おかしい。むしろ、アートとは、もっともありふれた空間においてしか機能しないものであって、現実に対立する虚構を拵え上げることによっては、成立しないものです。ですから、本来的に、アートとは、出来事のことでなければならない。

    したがって、ある営業マンが他社に自社製品を売るということも、そうした差異の実現である場合がある(A⇒B⇒C)し、あるいはマルクス風に流通が抽象化されて、A⇒B⇒A’でしかない場合もある。前者は「よい意味」、すなわち出来事を実現するでしょうし、後者は(悪い)意味、つまり国家市場を形成するでしょう。別に狭義のアートにしか出来事はない、などということはありません。

    こんなところでいかがでしょうか。

  • kio

    2008年12月2日(火) at 20:38:57 [E-MAIL] _

    もうすこし補足(蛇足)します。

    >所詮「出来事」とはキャロルが撮った少女の写真の中とかにしかないのもなのか?あるいは映画や絵画やアートの中しか。「表面から表面」への飛躍とはその程度のものなのか?だとすると「萌え」とどう違うのか?

    ではなくて、写真に写った少女は、それ自体が、もうひとりの少女、すなわち少女Dです。少女Cから少女Dの移行には、決定的な飛躍がある。すなわち、実態(実体)的な少女はもはや必要がないということ、端的に少女は表面的な存在、すなわち出来事になっているということです。キャロルは、それゆえに、真に芸術=現実でありうる写真を前にして、ついに「わたしのものだ」ということができるわけです。

    そもそも、ぼくたちの誤謬は、出来事が厚みのあるものだ勘違いしている点にある。しかし、厚みをもたらすのは、出来事を記録した、堆く積もったテクストであり、すなわち、テクスト=歴史の厚みが、極薄の出来事を覆い隠してしまう、と考えます。

    したがって、むしろ現実とは、厚みなき、無数の、しかし極薄の出来事によって成立しているのであって、あらゆる芸術の空間は、そうした出来事の層を切り取ることによってこそ成立する。だから、写真の中にしか出来事がない、というのではなくて、少女の真の模造を撮ることによって、キャロルの写真は出来事のシリーズのなかに参入したわけです。キャロルは、一連の出来事から、その一部を奪取した、と考えてもいい。

    表面から表面への飛躍とは、もっと恐るべきものです。要するに、出来事にかかわるかぎり、ひとは着地できない(し、する必要もない)、ということを意味します。絶対的な境地にひとは滅多にたどりつけないから、表面的に生きるほかない、という考え方は、端的にロマン主義なのであって、むしろ、《いまここ》が絶対的な境地です。

    「萌え」が意味するところをぼくはあまり知りませんが(知りたくもないですが)、アニメのような現実離れした虚構はそもそも問題外。現実離れによってしか成立しないのがアニメだけど、じつは、そもそも現実離れなんて、できないわけで、だから虚構の世界ならなにをやってもいいなんてことには絶対にならないしできないし、そういう観点からしかアートは発生しえない。当たり前のことです。そういう視点をもてば、アニメやマンガだってアートになりうるけど、サブカルをもてはやす似非知識人の理論に納得してるようじゃ、だめです。

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