醜悪な戦争、精神と肉体の弁証法

criticism
2009.01.07

イスラエル軍は空爆の映像を世界に配信している。とにかくひどいという印象をわたしに抱かせる。この映像のフレームそのものが醜悪であり、撮影する者が代表している人間の醜悪さ、まるで人類の善を気取り、代表するような傲然とした態度が、かえってわたしを戸惑わせる。映画的訓練を受けたひとなら、カメラが世界を二つに分割することを知っているはずである。撮影する者(見る者)と、被写体(見られる者)とにである。わたしはどちら側にいるか。間違いなく、この被写体を眺める、イスラエル軍の側にいる。この居心地の悪さは、カメラがもつ、もっとも低俗で、なおかつもっとも強力な能力である、世界を見る者と見られる者に分かつ二分法がもたらしているのだろう。

われわれはこれをどう考えるべきなのだろうか。人間がロケットの周りを徘徊している。それにむけて照準を何度も合わせなおし、ついに彼はミサイルのスイッチを押す。車に積まれたロケットは、周囲の人間もろとも木っ端微塵であろう。飛来する爆弾の炸裂をまともに受けて死んだひとびとは、まだ、自身が次の瞬間にはあの世の人間となっていることを知りもしない。もしかしたら、死んだパレスチナ人たちは、自身の運んでいたロケットが事故を起こしたと勘違いしていたかもしれない。とまれ、そこには、戦争というよりは、神の懲罰に似た倣岸さだけが瀰漫している。これは戦争ではない。とはいえ、こうした審判あるいは懲罰は、今日の戦争の主要な側面である。一方には、弱者であることを傘に着た、しかし勇敢なテロリズムという、犯罪に似た戦争。他方には、テロを雲の上から一方的に裁く、神の懲罰に似た卑劣な戦争がある。犯罪とその懲罰こそが、二十一世紀の戦争である。

そうはいっても、これはただの映像にすぎない? これは情報であって、現実にはもっと別のことが起きている? そうかもしれない。だが、戦争の分析よりも前に、まず考えなければならないのは、人間が、映像の《とおりに》死んでいるという、不思議な事実である。

真理と現象を別のところに配置し、区別する思考は、現象を真理もろとも情報に変えてしまう。現象に対して、情報学的な判断が要求されるようになる。それが、ジャーナリズムの勃興から世界大に広がったインターネットの普及によってきわまった、今日の視線のあり方である。だが、わたしは思うのだが、こういうときこそ、物自体と現象とを区別するような、そうした態度を捨て去るべきなのではないだろうか。イスラエル軍自らが配信している映像に対して、そうした区別はなんら必要がない。たんに人が、肉体的に死んでいるということである。戦争とは、おそらく、現象と物自体とを区別しようとする、そうした人間性の揚棄にほかならない。

真理と現象(あるいは認識)の区別は、もとを正せば、精神と肉体の区別に起因している。精神にとっては、肉体こそが真理への道程を邪魔する現象であり、また肉体にとっては、精神こそ、真理を遮断する認識論を構築する。精神にとって、肉体とはまやかしであり虚構だが、肉体からすれば、精神ほど虚偽であるものはない。驚くべき明快さによって、心身二元論は、世界を真実と嘘の世界に二分してしまう。カメラを挟んだ向こう側、そこには、被写体であるにすぎない、つまりは虚偽そのものであるような敵がいる。その一方のこちら側には、正義を気取って撮影に勤しむ、真理の裁定者がいる。かくして、世界は二分されるのだ。

だが、現実的には、精神と肉体とが別々の状態のままでは、なかなかひとはうまく生きることができない。むしろ、心身二元論とは、病のことである。ニーチェが自身を健康だといったのは、いかに衰弱していようと、精神と肉体とが、完全に同じ場所を占めていることを誇ったからだ。真理と嘘は、同じ場所を占めるのでなければならない。

このことから、逆に、戦争がなにを行なうのかが、見えてくる。――それは、精神と肉体とが別々に存在していると考える人間をあざ笑うことである。ただ肉体的に死ぬということが、精神の死をも意味するのであり、戦争とは、精神と肉体とを別々のものと考えがちな人間が、望むと望まざるとにかかわらずとらざるをえない、快癒のプロセスであり、最後の弁証法なのである。戦争の前では、現象と物自体の区別はまったく無駄なことである。たんに、精神と肉体の二重体である人間を木っ端微塵にする。

だが、もとを正せば、人間は、精神と肉体とを極端に分割するからこそ、戦争という、極端な回復プロセスが必要になるのではないのか。だとするなら、戦争に対して、物自体の回復を唱えても無駄である。人間性の回復を唱えることも、それが精神と肉体の分裂を回復しようとするものであるかぎりは、無駄というよりは有害である。わたしには、むしろ、そうした区別が、この醜悪な戦争を要求するように思われる。精神と肉体の分裂を、死によってしか回復できないほどに、ひとは人間でありすぎることがある。

こうした極端な弁証法的過程を歩む戦争において、敵を殺害し、なおかつ生き残った者は、かえって著しい分裂状態に苛まれることになるだろう。死による弁証法的統合過程から取り残されるということ、それは、精神と肉体の分裂状態を生きることを意味する。死の欲動が強く生まれるのは、まさにこのときなのだろう。

どうしてひとは、心身二元論を作り出してしまうのか。本来、精神と肉体とが、別々の場所にあったことなど、一度もない。わたしはいつも《ここ》にいるが、精神は《故郷》に、すなわちパレスチナに、イェルサレムに所属している――こうした思考はナショナリズムを可能にする。だが、実際には、それは病なのだ。

HAVE YOUR SAY

_