少子化対策について

criticism
2007.02.19

カントは、「他者を手段としてのみならず、つねに同時に目的としても扱え」と言っている(1)。この言葉は理性的な意味ではおおむね正しいが、逆にこのようにも考えられねばならない。《他者は手段としてのみならず、つねに同時に目的としても扱ってはならない。》こう考えねばならない場合とは、主として、他者が自然において見られる場合である。自然においては、他者について、いかなる目的も手段も成立しないからである。自己と他者とのあいだには、一種の《緊張》だけがあるのであって、どちらか一方から他方に向かって目的という線が引かれているわけでもなければ、一方に対して他方が手段として従属するわけでもない。

わたしがここでカントの「他者論」を批判的に持ち出したのは、ここで言われている《他者》こそ、わたしたちがいま問題にしている未来の子供たちのことだからである。未来の子供たちは、わたしたちにとっては手段であると同時に目的でなければならないが、しかし他方で、彼ら子供たちが、わたしたちの手段や目的であってはならないのである。

とはいえ、ここでは、そういう哲学的な話はしない。というのも、哲学的な議論においては、すでに答えが出ているからである。つまり、少子化対策は哲学的には完全に誤りなのだ。未来の他者を前提として議論を構築することはできないのである。未来の他者は、本質的に「自由」な存在である。未来の他者が、現在を生きているわたしたちの思惑通りに動いてくれることを想定するわけにはいかないのだ。また、子供の出産は、端的に《自然》に属する、言い換えれば《自由》にまつわる問題であることは誰でも知っている。個々の出産の場面を具体的に想像してみればよい。子供を作るという行為は、けっして理性によって統御しうる問題とはなりえないし、したがって哲学的には政治がどうこうする問題ではないという判断が下されざるをえない(2)

哲学的には、もう結論ははっきりしている。むずかしい言い方をしたが、簡単にいってしまえば、子供の人生を、わたしたちの老後の生活という目的のために使うのはいくらなんでもおかしいということだ。少なくとも老人であるわたしたちの方から言うことでも、またこちらで勝手に決めることでもない。したがって、残っているのは、政治学的な問題である。あくまで、国家運営という観点から、すなわち理性の範囲内で話をすすめよう。理性的に語る、とは、つまりこういうことだ。国家運営において、少子化対策は、目的であり、かつ手段であるようなものとして、是か非か、というものである。

国家の運営には、つねに目的が必要だが、どんな目的でもいいというわけではない。その目的が、つねに国家の運営にとって都合のよい結果をもたらさねばならず、そうでなければ国家は必然的に衰退するだろう。したがって、本当のところは、どのような政策も、国家の維持という究極の目的にとっての手段であらざるをえない。つまり、少子化対策がとられるとして、この対策の目的はもちろん少子化を克服することだが、同時に、国家運営のための手段なのである。

国家運営といってもいろいろある。だが、手段としてこの政策をみるかぎり、なにが当面の目的になっているかはすぐにわかるだろう。すなわち、いかにして年金制度を維持し、またいかにして労働力を維持し、そしてまたいかにして国家の経済規模を維持するか、ということであり、そのための手段こそが、今日の政府が行なおうとしている人口の増産なのである。

たしかに、このまま少子化がつづけば、今日の年金制度はもちろん維持できない。しかし、子供たちが、わたしたち老人の望みどおり年金を納めてくれる保証はいっさいない。今日の世代を通じた人口分布を前提にした年金制度を維持することは、かなり困難であり、そもそも問題のある制度を維持するために子供を生産するなど、本末転倒もはなはだしい。

今日の日本の人口およびその分布は、歴史上もっとも極端な戦争およびその後の経済成長の結果あるいはその相互作用として生じたものである。ましてや、人口を1億2000万人に増やすのと違い、1億2000万人をつねに維持することは、さらに困難であろう。今後あの極端な経済成長を期待できないとすれば、この人口を維持するのは、大量の移民を受け入れないかぎり、不可能に近い。したがって、単純に人口を増産することで、年金制度の問題を克服することはできないのである。ましてや、1億2000万人の《日本人》、しかもそのうちの男性労働者のみを前提にした政策など、維持できないのは明らかなのだ。国家運営における人口問題においては、たんに数を維持するという発想よりも、時代を通じて労働可能な人口を一定させる方向で考える方が、よほど効果的であり(といって問題がないわけではけっしてないが)、はっきりいって、今日の少子化対策はほとんど無意味である。

日本の社会は、もはや女性の労働力を期待しないわけにはいかなくなっている。一組の家族ということを単位として国家運営を考える限り、少子化の克服を直接の目的にするよりも、女性に対する労働の解放の方が、男性の意識次第ではあるが、比較的成功する可能性が大きい。月給20万の男子をひとり作るよりも、月給12万の男女を作る方が、よっぽど理にかなっている。たとえ人口が減少したとしても、そうすれば労働力も生産力も流通も確実に維持できる。ひとりあたりの労働時間を減らせば子供といられる時間も結果的に多くなるだろう。子供の養育にかんして、子を作ればそれで終りだと考えている男性が多いようだからどうしようもないのだが、はっきりいえば、子を作り、そして生み、育てるまで、ずっと男女の共同作業である。男が家事をするときもあれば、女が外で働くときもある。あるいは、こう言ってもいい。ひとりの人間が女になるときもあれば、男になるときもある。それでいいのである。そのために重要なことは、妊娠-出産というイベント後も、女性がそれ以前と同様に働くことのできる環境を作ること、ただそれだけだ。結果として、男女のカップルは確実に増える。男女にとって、稼ぎ手が増える以上、その方が圧倒的にメリットが大きいからである。また、その結果として、子供も再び生産されることになるだろう(その意味でいうなら、じつは少子化対策の結果、出産・育児についての環境が整備されるのであるならば、女性の社会進出が適度に進む点で、効果がないわけではない)。また、これなら、子供の出産というイベントに、少なからず国家が介入するという、きわめて野暮な事態も避けることができるだろう。

その意味で、あの厚生労働大臣ほどかの地位に不適格な人間はいない。女性に対する配慮を欠いているとか、それだけの問題ではないのである。上述の点から考えるに、女性の社会進出をブロックしているような国家は、結果的にはどう考えてもそうはしていない他の国家と比較して、経済的に立ち遅れることになるのは必然である。移民も入れたくない、かといって女は家にいてほしい、しかし年金は欲しい、などという老人が政治の枢要にいるような国家に明日はない。アホ。

【註】

  • (1) 柄谷行人は、『倫理21』あるいは『トランスクリティーク』において、カントのこの議論の「のみならず」の箇所に注意を与えている。これは重要な指摘ではあるが、それだけでは他者論としては不十分である。
  • (2) 国家理性によって子供を作る場面を想定することほどおぞましいものもそうはない。たとえば、おそらく、昨年生まれた天皇家の息子には、こうした《自由》はいっさい与えられないだろう。確実に男子を生む家系の女性が国家によって選定され、うまくいかなければ近代科学の粋を尽くして男子が生産されるのだろう。このままいけば、彼には恋愛の自由は与えられず、また与えられたとしても形ばかりのものが与えられるに違いない。また、かの不幸な少年に、幸運にも表向きの自由が確保できたとして、その次はどうなるのか。わたしたち日本人は、これからも、こうしてたくさんの未来の少年の、そしてその妻となるだろう少女の自由を犠牲にしながら、国家を維持していくつもりなのだろうか?

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