犬のディオゲネスが人間を探して昼間の市場でランプを灯していたのは、アテナイがアレクサンドロスのマケドニアに従属する頃の話。ニーチェはこのエピソードから、超人の概念に行き当たる。超人は、ヒューマニズムを否定しているわけでは […]
超越論哲学——キリスト教社会における、神的超越から人間的超越「論」への移行。西欧社会がもちえたカント哲学の価値を、東洋のわれわれは想像するほかない。また一方で思うことは、カント哲学は日本にあまりのもはまりすぎるのではない […]
学者にとっての実践とは、自分の頭で考えることであり、本を読むことではない。実学と虚学という分割は不毛であり、ましてや、実社会でお金のやり取りをすることが実践で、学者は理論にだけかかわっているというのは、学者自身も陥りがち […]
アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない(作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せ […]
いつしか自分の頭に住みついた片頭痛が日曜日の深夜に勢いを増す。発作的に激烈な痛みと嘔吐に襲われる。ミシュレやニーチェのかかった病と同じなら少しは気は休まるが、肉体的にはこれまで感じたことのないほどの痛み。 日々の頭痛の種 […]
このところ身体の一部で感じているのは、懐疑につぐ懐疑、超越論につぐ超越論のはてに、神学的ドグマに回帰する傾向である。私はなにものをも決定しない、という態度は、究極的には、神(宗教)にすべての決定を委ねる神学的ドグマに行き […]
人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称 […]
対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心 […]
ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。20世紀後半から今日に至るまで、これらの概念(デリダは […]
おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ!》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の […]
社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められよ […]
欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を […]
小林秀雄は、かつて「どんなに正確な論理的表現も、厳密に言へば畢竟文体の問題に過ぎない」(『Xへの手紙』)と語り、文学の本質を文体に求めていた。当然、芸術の本質は「フォーム(姿)」(「美を求める心」)にあると考えられた。文 […]
ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味(こう言ってよければ《意味されるも […]
わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を […]
ニーチェは、『楽しい科学』のなかで、「忘却の音楽」について語っていた。たしか、彼はそこで、芸術を二つに分類していたはずだ(不確かな書きかたをするのは、いま手許にこの本がないから。今月二度目の満月の光を浴びながら、これを書 […]
ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま […]
天から降りてくる無数の雫。漏斗としてのわれわれ(1)は、そのいくつかはあふれさせながらも、いくつかを受けとめることに成功した。受け止められた雫は滞留しながら中心に向かってゆっくりと流れ、次第に速度を増して大地に落ちるだろ […]
ニーチェはいう。 すなわち貧弱な心理学者であり人間通。…徹頭徹尾の独断論者であるが、この傾向に重苦しく倦怠し、ついにはそれを圧制しようとねがったものの、懐疑にもただちに疲れてしまう。いまだ世界市民的趣味や古代の美の息吹き […]
今日、哲学、歴史学、そして文学の世界で、幅を利かせているのは一種のピュロン主義者たち、すなわち判断中止(エポケー)学派の群れである。たとえば、柄谷行人は教える、判断中止こそ、彼のいう「他者」へ至る至高の道のりである、と。 […]
アレゴリーから小説へ。文学の歩みにおけるその日付を明示したのは鬼才ホルヘ・ルイス・ボルヘスである。彼は言う。 アレゴリーから小説へ、種から個へ、実在論から唯名論へ――この推移は数世紀を要した。しかも、わたしはあえてその理 […]
パウロの弟子ディオニュシオス・アレオパギタ、あるいはネオ・プラトニズムを信奉する人たちによって、神は肯定の世界から取り除かれ、否定の祭壇へと祭り上げられた。《神はいない》。存在の影としての神。この影が世界を覆い尽くしたと […]
ひとが作り出したもっとも古い観念のひとつに《神》がある。《神》は実在するのか、しないのか。それとも、《実在》という語がそぐわない、ある種の超越それ自体を指すのか。実在や経験、あるいは精神や観念、そしてそれらすべての超越者 […]
兵士と戦士とを厳格に区別する必要を最初に説いたのはニーチェである。そしてニーチェは、ひとに兵士になるな、戦士になれ、と言った(ドゥルーズ=ガタリの《戦争機械》の概念は、この区別の延長上にある)。このニーチェの箴言は、いま […]
ニーチェというひとりの人物が成長し、文献学者から哲学者へと変貌する姿は、ぼくたちを感動させる。そこには、なにひとつ無駄なものはない。そうした成長の物語――ひとりの独身ドイツ人の伝記作品を、ニーチェの生涯に見ることは、もち […]
ぼくは、ニーチェほど不器用で、そして真っ直ぐな人間を知らない。端的に、崇拝するアイドルのひとりだ。彼は真っ直ぐであることにナイーヴで、そして勇敢だった。ぼくたちには、彼の書いたものは、ときに、あまりにもひねくれて見える。 […]
蚊を叩き潰す。幼い頃、ぼくは昆虫その他小動物を愛していたので(いや、生き物全般をあれほどに愛していた時代はなかっただろう)、蚊が自分の腕を枕に食事をしているのをみても、窓の外に追い出すことしかしなかった。だが、そんな余裕 […]
長年、ほとんどまともにひとから認められたことのなかったセザンヌは、南仏エクスに隠棲し、孤独な生活を営んでいた。そんな彼も、五十五歳になった。ある日、いくらか気分がよかったのか、不意にかつて親しかったモネの家を訪れた。そこ […]
さて、わたしは、言葉は、《力》だと考えている。先の自己対話的エッセイにおいて、完全にAの主張に同意する。言葉は不完全であるとか比喩であるとかいったBのような思考にはうんざりしている。ニーチェは「権力への意志」について語っ […]
ウィリアム・バトラー・イェイツの著名な詩、「学童たちのあいだで(Among School Children)」の最終行に、次のような一節がある。 How can we know the dancer from the d […]