哲学者と芸術家――ニーチェとドゥルーズの場合

philosophy
2008.09.22

ぼくは、ニーチェほど不器用で、そして真っ直ぐな人間を知らない。端的に、崇拝するアイドルのひとりだ。彼は真っ直ぐであることにナイーヴで、そして勇敢だった。ぼくたちには、彼の書いたものは、ときに、あまりにもひねくれて見える。けれど、それはたぶん、ぼくたちの世界が歪んでいるからだ。だから、彼がときおりみせる肯定は、このうえなく美しい。それでも生はすばらしいものだと、彼はまっすぐにぼくたちを見つめて、その恥ずかしい言葉を口にするのを憚らない。その肯定は、世界で一番美しいもののひとつだ。

そのニーチェについて、もっとも美しい言葉を残したのが、ジル・ドゥルーズである。彼の『ニーチェと哲学』は、ニーチェという交響曲の、最高に美しい演奏である。それにかなうものをあげるとすれば、最近では、グールドの弾くバッハくらいのものだろう。『ニーチェと哲学』は、ぼくを知的に興奮させると同時に、もっとも単純な感動に誘う。

ドゥルーズは、凡百のアカデミシャンとはちがう。テクストとして紙に固定されたニーチェをさまざまに解釈したりもしなければ、テクストの境界を忠実に守りながら、それまで積み重ねられた解釈を脱構築することで、余白を取り返し、ふたたびテクストとしてのニーチェを救い出す、というようなことにも無関心である。彼はあくまで、ニーチェを究極にまで高めながら、同時にニーチェに忠実であろうとする。ニーチェを高めるためなら、《テクストの解体さえ厭わない》。だが、にもかかわらず、彼は同時にニーチェに忠実である。それは可能なのだ。

究極――すなわち《自然》。そこでは、ニーチェは思う存分高められて、もはや《自然》に等しく、そして同時にドゥルーズもまた、忠実であればあるだけ《自然》に等しくなる。つまり、ニーチェとドゥルーズ、そのどちらもが入れ替わり立ち代りしながら、《自然》の名のもとに等しく高揚していく。そしてドゥルーズは言う。こうした特別な読解法こそが、ニーチェの哲学の神髄である、と。ニーチェの賛美したディオニュソス的陶酔の能力は、「テクスト」のはるか彼方にある。

一方が他方を審判するのでもなければ、他方のために一方が慎ましやかに自己の領域を守るのでもない。ドゥルーズの読みは、ニーチェもドゥルーズ本人も、双方が、テクストを超えて名を高めあう、そうした読みである(ニーチェの言葉を借りれば、ドゥルーズは「読む」のではなく、テクストなしに、声に出して、「暗誦」している)。それは、パウル・クレーがパルナッソス山を描くとき、「パルナッソス山」が美に高められ、同時にクレーの名が芸術家として高められるのと、まったく同じことである。

ドゥルーズのことを「秀才」と呼び、優秀なアカデミシャンだと呼ぶひとたちを見かける。だが、その評価は的外れだと思う。まったくどうかしているというほかはない。彼はまごうかたなき天才だ。天才とは、テクストの壁を乗り越えて、こうした読解ができる人間ならざる人間のことだ。つまり、ドゥルーズは、天才の定義の中心にいるひとりだ。こんな絵画を描けたドゥルーズが羨ましい。よくもここまで、と思う。あるいはこう言ってもいいだろう。彼の特別な非-読解、つまり「暗誦」は、グールドの弾く天才的なバッハ演奏に等しい。グールドは、テクストに忠実であろうとなどしない。強いていえば、彼はバッハに忠実なのであり、バッハをかぎりなく自然に等しい高みにまで押し上げながら、テクストとしてのバッハを超えたバッハだけを、彼は演奏しているのである。それはバッハでなくグールドであり、それでいて、グールドではなく、バッハである。

バッハの仮面をつけたグールド。あるいは、ニーチェの仮面をつけたドゥルーズ。だが、その仮面の本体たるバッハやニーチェもまた、彼らが天才であるかぎり、《自然》が纏った仮面でなければならず、そして実際には、《自然》そのものが、その本質からして仮面なのである。仮象の、すなわち形而上学の勝利。《すべては仮面であり、したがってすべては仮象なのだ》。天才たちは、こうした仮面の連鎖のなかに、みずからの項を作り出す。彼らは、すでにそこに参列している子供や動物、労働者や宇宙人と手を取り合って、その連鎖の連鎖を生と謳歌する。……

実際、その演奏家が本物の演奏家であるならば、演奏だけしているというのは大間違いだ。彼は、同時に二つのことを行う。まずもって、たとえばバッハやベートーヴェンという人間が残した楽曲を、《自然》にまで高める努力をしなければならない。つまり、それまでのさまざまな常識的読解のみならず、テクストそのものからさえも、《人間》的なものをすべてそぎ落とす勇気を持たねばならない。そして、そうしてはじめて、テクストは潜勢的な音楽となって現れる。というかむしろ、その時点で、はやくも音楽が鳴り響き始めるのだ。そこまでいけば、もう彼には指は必要がない。それは、すぐれた剣術家が刀を必要としないことと同じである。真の演奏家は、優れた指ではなく、優れた耳を持っている。楽譜の彼岸にある音を聴き取る、耳を持っているのだ。その際には、もはや《自然》にまで高められた楽曲に、いかに忠実に演奏するか、その技術が試されるのである。もっと簡単にいえば、真の演奏家は、哲学と芸術の二つを同時に実践する。

ぼくたちは、人間の手垢に塗れた自身の行為から、人間的なもののすべてをそぎ落とし、それを《自然》のなかに住まわせることを、哲学と呼ぶ。哲学とは、人間を自然のなかに住まわせる努力である。これをときに理論と呼ぶが、そうした理論が真に理論であるためには、つねに人間を《自然》に重ね合わせる努力が含まれていなければならない。

したがって、優れた演奏家は、すでに芸術家であり、作曲家とさえ同じなのである。ベートーヴェンが《自然》に対して行なったことを、グールドは、ベートーヴェンに対して行なう。ベートーヴェンが、自分の耳から人間的なものをそぎ落として、《自然》の音を聴こうとしたように(もちろん、画家の哲学は、視線から人間的なものをそぎ落とすときに発揮される)、グールドは、「ベートーヴェン」から不要な括弧をそぎ落とす。芸術家は、まず哲学を行なうのだ。

ならば、芸術はなにをしているのかといえば、こうだ。そうした哲学をひとに伝える、ヘルメスの役割を果たす。ぼくたちが、こうしたコミュニケーションであるところの芸術を、にもかかわらず、ときに創造的な行為と呼ぶのは間違いではない。創造とは、まさに赤子としてのぼくたちが両親の顔を引き継いで生まれてくるように、むしろ、《自然》を反復することだからである。また、これをぼくたちは、ときに物語と呼ぶ場合がある。これも間違いではないが、虚構を作り出すこととはまったく異なる、という点は、念頭に置いておこう。

真の芸術家は、まずもって哲学するひとたちである。ただ表現すれば芸術だと思っているなら、それは大間違いである。そして、真の哲学者は、まずもって、芸術家たらんとするひとたちである。けっして、学者のように、テクストとかかわろうとはしないだろう。テクストと戯れていればそれで哲学だと思うなら、やはりそれも大間違いである。ニーチェやドゥルーズはより哲学的なひとであり、バッハやグールドは、より芸術的なひとであった。だが、前者は芸術を惰ってはいないし、後者は哲学することに倦んだりしない。芸術家や哲学者というレッテルは、両者の度合いである。

そして、ぼくがいま、次に言いたいことは、この芸術‐哲学、あるいは哲学‐芸術の連鎖を含めて、この両者の重なりあうちょうど一点に的中するように、日本人はこれを《文学》と呼んでいるという事実である。いや、呼んでいた、という過去形を使うべきだろう。もう、そのことを知っていたひとは、どこにもいなくなってしまったからである。……

[amazon asin=”430946310X” /]

HAVE YOUR SAY

_