今日、わたしたちが直面しているのは、人類は《炎》を捨て去ることができるのか、という問いであるように思われる。たとえば不運なハイデガーの語った《炎》は、ユダヤ人を焼き尽くそうとしてナチスの放った炎と、結果的にはほとんど同義 […]
カントによれば、純粋理性は次のような道のりをたどる。(1) 独断的理性、(2) 懐疑的理性、(3) 批判的理性、である。これらについて、わたしなりに解説を加えてみよう。 (1) 独断的理性 たとえば神や、あるいは自己の […]
今日、その名が名指しされるか否かは無関係に、ある勢力が瀰漫している。それは、新しいカント主義者たちの勢力である。 かつては新たな経験論の到来としてあれほどにさかんに謳われもした、ジャック・デリダの《脱構築》は、いつしかア […]
ところで、夏目漱石がなにより戦い、敵としていたのが同時代の自然主義者たちであった。彼ら自然主義者は言うのだ、徹底した自己批判を行い、主体と客体とを分離することで、客観的な観察者となり、そうした《目》で物事をみることで、あ […]
わたしの専攻はニーチェとおなじく古代ギリシア・ローマ史であるわけだが、「史」という言葉が定義上どのような範囲をもつにせよ、やることは決まっている。文献をひたすら読むことである。たしかに、“東洋”の端に位置するこの国にあっ […]
ニーチェ主義者だったマックス・ヴェーバーにとって、ドイツ歴史主義の時代の雰囲気のなかで活躍しながらも、また、その当の歴史主義こそは最大の敵でもあった。それゆえ、今世紀の半ばにポッパーによってなされた歴史主義への痛烈な批判 […]
「《歴史》とはなにか。」 この問い、ほとんど沈黙を意味するかにみえるこの問いこそが、カントを境界線として始まった近代人のもっとも憂慮すべき問題であったことは、答えを待たないだろう。近代は超克されたか? 歴史は終焉したのか […]