アンチ・カンティアニズムIII

philosophy
2006.07.28

カントによれば、純粋理性は次のような道のりをたどる。(1) 独断的理性、(2) 懐疑的理性、(3) 批判的理性、である。これらについて、わたしなりに解説を加えてみよう。

 (1) 独断的理性

たとえば神や、あるいは自己のような表象は、経験(自然)によっては与えられない、超越論的(内在的transzendental)なものである。ところで、表象は二つに分けられる。すなわち、A:自然から(外から)経験によって与えられるものと、B:経験に拠らず、内から与えられるものである。前者(A)は現象と呼ばれ、後者(B)は仮象と呼ばれる。後者のいわゆる内在的な仮象について、人間理性は、これを自然を越えたものとみなす。たとえば、神や自己意識は、その典型的なものであろう。これらは、その時点では、超越的transzendentなものとみなされる。主観が見出した仮象を、ただちに、あらゆる経験を超越するものと判断する(そしてなおかつそれらを経験の世界にそのまま適用する)このような理性を、独断的理性と呼ぶ。

 (2) 懐疑的理性(1)

しかし、こうした理性は次第に懐疑に陥らざるを得ない。なぜなら、理性は、神と自己とを同時に見出すからである。神と自己とが同時に自然を超出すると考える時、自己と神とは、同じ場所にいることになる。天界にいるはずの神と、下界にいるはずの自己が同じ場所にいるということは、自分は神であるという独断的理性を肯定せぬ限り、それ自体が理性そのものによって、自己矛盾とみなされる。これがいわゆる懐疑的理性である。あるいはこのように説明してもよい。理性は、過去から未来に至る自己の一生を、必ず全体において捉えようとする。すなわち、理性は、自己に、人生を通じた一貫性(同一性)を要求する。だが、経験はそれを許さない。経験においては、さまざまな他者と出会う。そしてそのつど、自己は修正を強いられる。したがって、独断的理性は、同一性の維持に必ず失敗するのである。そこで生じるのが、理性への懐疑である。

この懐疑に到達した最初の近代人のひとりはもちろんレネ・デカルトだが、彼はまもなく神と自己の存在を証明するという独断的理性に後退してしまった。むしろ、この懐疑的理性は、カントが言ったように、かのデイヴィッド・ヒュームによって達成されたと言うべきだろう。彼は「あらゆる懐疑論者のうちでもっとも聡明な人」(『純理』下、62ページ)である。すなわち、彼は、経験を超えるいかなる「自己」も存在しないと診断したのである。したがって、彼は、理性によって与えられた個々の事実を精査し、ある場合には正しいがある場合には誤謬である、というような、理性の自己吟味というべきものを発案したのである。これらは、もちろん、理性のもたらした表象に仮象であるという判断を下しはするが、むしろ、そうすることで、理性に「憩いの場所」を与えるだろう。「理性はここで自分の独断的な流浪の旅路を反省し、さてこれから今までよりもいっそう確実な道を選択するために、現在いるところの見取図を描くことができるからである」(同、59-60ページ)。すなわち、独断的理性の犯した失敗のために強いられる数々の修正の中から、一貫した自己を見つけることは依然として可能なのである。わたしの考えでは、カントが「独断的な流浪の旅路を反省」するという言葉で表しているのものこそが、フロイトの言う、超自我である。

だが、「これはまだ第二歩にすぎない」のであって、「これだけではまだまだ仕事は完成しない」(同、59ページ)。また、こうも言っている。「理性の経験的使用にあっては、理性に対する批判は必要でない、理性の原則は経験という規準によって絶えず吟味されねばならないからである」(同、14ページ)。ここで彼が指摘しているのは、経験においては、ヒューム的な懐疑、すなわち第二歩までで十分だ、ということである。このことについては後でもう一度述べる。

 (3) 批判的理性

カントは言う。

 この第三歩は、成年の成熟した判断力にのみ与えられる確実な格律――換言すれば、その普遍性に関して実証された格律を根底としている。即ちかかる格律は、理性の個々の事実を評価するのではなくて、理性自身をその全能力とア・プリオリな純粋認識に対する適格という点から評価しようとする。これはもはや理性の吟味ではなくて、理性の批判である。かかる批判によって証明されるのは、理性の単なる制限ではなくて、理性の明確な限界である。単にあれこれの部分に関する無知ではなくて、或る種の一切の可能的問題に関する無知である。(『純理』下、59ページ)

彼がここで試みようとしているのは、経験によって生じない、仮象の批判である。ヒュームの考えでは、経験によって吟味可能な概念については、判断が可能である。だが、仮に、経験によっては与えられない概念があるとすればどうか。結局理性はそこに居住地を見出すだろうし、またそもそも、純粋理性は、最初からそこに住んでいるのである。したがって、カントにおけるヒュームに対する批判は次のようになる。

私はア・プリオリにも、私の概念のそとへ出て我々の認識を拡張し得ると信じている。そして我々はこのことを、二通りの仕方で試みることができる、即ち純粋悟性によるかさもなければ純粋理性によるか、この二通りである、そして経験の対象であり得るものについては純粋悟性によるし、また物の性質にせよ或はかかる対象の現実的存在の性質にせよ、経験において現われてこないような性質に関しては純粋理性によるのである。ところが懐疑論者ヒュームは、かかる二種類の判断を区別しなかった、しかし彼は、当然この区別を設くべきであった。(『純理』下、62-3ページ)

要するに、もとより経験の埒外を住処とする理性の吟味は、経験によって行なうことは不可能なのである。経験によって行なうことのできる吟味とは、むしろ、純粋悟性の概念なのだ。すなわち、カントの行なおうとしたことは、ヒューム的な懐疑の徹底であり、ヒュームが吟味という形で飼い殺しにした理性に完全な止めを刺すことなのである。カントは、ヒュームが暗黙の前提にしていた「習慣」、すなわち連想の規則にすら、理性主義を見出し、これを糾弾するのだ。ヒュームが、自身の所論そのものを成立させようとする限り、ぎりぎりまで希薄化されたとはいえいまだ居場所を残している、連想という理性主義を用いざるをえない。したがって、ヒュームもまた「懐疑論が必ず受けねばならぬ打撃を被らざるを得なかった、それは――彼自身の所論がまた疑われる、ということである」(同、65ページ(2))。だが、理性は、「一切の可能的問題に」ついて「無知」である。すなわち、純粋理性のもたらす表象は、すべて内在的なものであり、したがって、《仮象=まやかし》でしかないのである。まがりなりにも理性のもたらしたと考えられている表象が、たんなるまやかしでない可能性をもつのは、じつは、経験によって保証される悟性概念を含んでいる場合だけなのである。したがって、理性は、経験による吟味を待たず、それ自身によって、内在的に批判されるのである。

さらにカントは言う。

人間理性が、その純粋使用によっては何ごとも成就し得ないばかりか、自分のほしいままな逸脱を抑制しまたかかる放肆に因んでみずから招いたまやかしを防ぐために、更に訓練を必要とするということは、理性としてはいかにも恥かしい次第である。しかしまた他方では、理性がはたからの吟味をまたずに、みずからかかる訓練を自分自身に施し得るしまた施さねば成らぬということ、更にまたその思弁的使用に付せねばならぬ限界は、同時に相手方の弁証的な僭越をも制限するものであり、従って以前の思い上った要求が拒否されたのちにまだ理性に残されているものが、あらゆる攻撃に対して安全に確保されているという現状は、再び理性を鼓舞し理性に自信を与えるのである。それだからおよそ純粋理性の哲学の最大にしてまた恐らくは唯一の効用は消極的なものにすぎないであろう。(『純理』下、89ページ)

ここにあるのは、きわめてストア的な議論である。それにしても、いったい、ここでいう「自信」はどのようなものを指しているのだろうか。それは定かではないが――そもそも翻訳の問題もあるので即断できないにしても――、少なくとも、わたしたちが普段考えているような意味での《自信》が実現されるとは考えない方がいい。やはり、依然として、その効用は消極的なものなのだ。

とはいうものの、理性の批判は、いったい、いかにして可能になるのだろうか。内在的に批判するといっても、明白な限界がある。なぜなら、批判者であるところの理性が対象としているのは、当の理性だからである。自己批判とはよくいったものだが、口で言うのは簡単でも、その《実践》は、生半可な気持ちでできるものではない。ところで、カントは次のように言っていた。「理性の経験的使用にあっては、理性に対する批判は必要でない、理性の原則は経験という規準によって絶えず吟味されねばならないからである」(前出)。「理性の経験的使用」とは、独断的使用にほかならない。それは、じつは悟性の入り混じった使用である。したがって、理性の第二段階で示したヒューム的な懐疑は十分に有効である。しかし、純粋理性は、経験的使用が不可能であり、吟味の篩にかけることができない。にもかかわらず、純粋理性の批判が敢行されうるとすれば、それは、純粋理性に無理やりにも経験的使用が課されねばならない、ということである。カントはそれを、純粋理性の実践的使用と呼ぶ。つまり、カントは理性の経験的使用と実践的使用を区別している。

しかし、理性の経験的使用と実践的使用は、本当に区別できるのだろうか。経験的使用と実践的使用は、本当に違うものなのだろうか。もちろん、主観的には区別されうる、というのも、その区別の規準は理性の純粋性(内在性)だからである。しかし、客観的にはまったく区別できない。というのも、外に向かって使用された段階で、いずれにせよ、それらは純粋理性の手を離れているからである。だが、この点から、これらの区別が、次の規準をもとになされていることがわかる。すなわち、経験的使用は外に向かう使用であり、実践的使用は、内に向かう使用である。かくして、カントが言う、純粋理性の実践的使用とは、次のような命令に従うことだとみなさねばならない。《理性を、内在的なひとつの経験とみなせ》。もし、ひとがこの命令に従うのなら、カントの超越論的哲学の効用は、積極的なものとみなすこともできるだろう。この命令にしたがうことが、「積極的認識の源泉」(『純理』下、90ページ)なのであり、外的な《経験》と区別される、内的な《実践》なのである。つまり、(3)の段階において、理性は、経験と等しくならねばならず、仮に《理性》と名指されるものがあるとすれば、それは、人間の表皮を境にした、内なる経験の謂いなのである。彼は、つづく『実践理性批判』において、理性の実践が、誤って外に向かってなされることに厳格な壁を設けたとみなすべきである。もちろん、それは、理性が内なる経験にすぎないからである。また、理性が内なる経験にすぎないからこそ、理性=根拠reasonなしの自由が、そして理性の批判=危機Kritikが可能になるのである。ストア=フーコー主義的にいえば、自由とは、徹頭徹尾、「自己の陶冶」なのだ。

いずれにしても、ある行為に何らかの原因reasonが認められる限り、それは自由ではないと喝破したカントが、理性reasonに永久の居場所を許していたとは思われない。むしろ、他者の行為のみならず、私の行為にすら、根拠が存在しないということがありうる、ということを言うために、カントは理性を批判したのである。その意味で、カントの哲学は、ヒュームの継承であり、その徹底なのである。

さて、長々と要領を得ない説明をつづけてきたが、結局、わたしがカントから読み取ったテーゼは、次のようなものである。《神が死ぬ時、理性もまた同時に死なねばならない。》わたしは、理性にその居場所を許しているあらゆるカント主義に反対する。ドゥルーズが言うように、カントの視座を極限まで追求したのは、カントの偉大な敵対者、ニーチェなのである。

ニーチェは、そのカントに、次のような疑問を提示した。いったい、エクリチュールは、何ものなのか、と。歴史認識は、エクリチュールによって、外から与えられるとしても、にもかかわらず経験(実験)によっては永久に吟味不能である。歴史学者のうちで誰が、自分の議論を確実に証明しえるだろうか。過ぎ去った過去を取り戻すことは絶対にできないのだ。したがって、わたしたちは、この歴史認識を、カントの《理性的認識》と《歴史的認識》という、楽観的な区別に反して、理性によって吟味せざるをえないのである。もちろん、これを理性の生み出した仮象として批判するわけにもいかない、なぜなら、そこにエクリチュールが存在しているからだ。かくして、歴史を肯定する限り、カントの取り除こうとした誤謬は、必然性を帯びて現われてしまう。エクリチュールと歴史が取り結ぶ共犯関係を取り除かぬかぎり、カントの哲学は、永久にその力を封印されるのである。

【註】

  • (1) 本当は、純粋理性にこのような段階は存在しない、むしろ懐疑を与えているのは理性に入り混じった悟性だからである、とはいえ、議論の必要上、やむなくカントはこれを第二段階として記述している(『純理』下、55-6ページ)。ところで、この第二段階までをカントとして読むカント主義者があまりに多いのは、カントにとっては不幸である。カントは言う。「もし純粋理性に本来懐疑論的使用というようなものがあるとすれば、我々はこれを純粋理性の醸し出す一切の紛争における中立の原理と名づけてよいと思う、しかしこういう使用も実は存在しないのである。(略)こうして理性自身の厄介な争いから身を引こうとする懐疑論的方法は、いわば哲学における永久平和に達する捷径――或は少なくとも或る哲学者達が好んで歩むところの大道とさえ思われている」(同前)。柄谷の言っている「永久平和」をもたらす超自我は、カントが懐疑論的方法とみなしているものにほかならないことを、はっきりさせておきたい。
  • (2) もちろん、この観点からすれば、ヒュームですら、一種の理性主義者なのであり、むしろ、カントからすれば、もっとも聡明な理性主義者なのである。「私のこの研究は、なるほどヒュームの懐疑論を機縁として成立したものではあるが、しかしヒュームよりも遙かに進んでおり、総合的使用における純粋理論理性の全領域を、従ってまた一般に形而上学と呼ばれているところのものの全領域を包括しているのである」(『実践理性批判』岩波書店、117ページ)。カントと同時代に、ヒューム主義から、エドムント・バークのような筋金入りの保守主義者が出ていたことを考量すべきだろう。

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