歴史とはなにか?

history
2000.12.15

「《歴史》とはなにか。」

この問い、ほとんど沈黙を意味するかにみえるこの問いこそが、カントを境界線として始まった近代人のもっとも憂慮すべき問題であったことは、答えを待たないだろう。近代は超克されたか? 歴史は終焉したのか? 否、超克もされず、終焉もしなかった。ただ、終わりそびれた《歴史》が、われわれに空白と弛緩をもたらすばかりである。先験的=経験的二重体としての「人間」が《歴史》に到達することは不可能であり、この二〇世紀の終りに、またしても飽きもせずに《歴史》が繰り返されることだろう。マルクス主義の誤解に始まった社会・経済基盤を土台とする唯物史観も、無意識=歴史を発見するかに見えた心理学も、自己から出発して《歴史》を手中にしようとした実存主義も、実証主義的な地平を排した構造主義も、みな端的に言って《歴史》を理解するための試みであり、また、そのいずれもが《歴史》の陥穽に陥り無残な失敗を遂げた。ただ、われわれが、「人間」には超えられない《歴史》という城壁のなかにいることを激しく痛感させてくれたにすぎない。

近代の超克、ポストモダン。この凶暴な試みを最初に唱えたのはニーチェであった。われわれはいまだなお、ニーチェの《歴史》批判の地平にいる。フーコーが、ドゥルーズが、デリダが、このニーチェの意志を受け継ぎ、ポストモダンの地平をはるかかなたまで切り拓いたにもかかわらず、われわれは執拗に「自分」を探すばかりで彼らについていこうとはしなかった。そして彼らとわれわれの間に生じた途方もない距離は、そのまま弛緩しきった空白をもたらす結果となったのである。あるいはこうも言うことができよう。彼らは、われわれをとらえて離さない「モダン」の束縛から解放してくれた。だが、その結果、「人間」は《歴史》という仮の宿すら失って世紀末をさまよう砂漠の住人になるほかなかったのである。ドゥルーズの言うノマドロジーとはこのようなものであったのか。果てしない現状肯定がその言わんとすることだったのであろうか? いや、そうではあるまい。彼はつねづね意識し、発言していたように、それは現状肯定などではなく、積極的な概念創造の試みとして彼の書物は言いようのない輝きを放っていたはずである。「人間」の概念を根底から覆す、新たな人間、すなわち「超人」の誕生を夢見ていたはずなのだ。「肯定」の身振りとは、輝ける概念創造のもとにおいてのみ可能なはずなのだ。

ここでもう一度、《歴史》を考え直してみることも悪いことではあるまい。別の言い方をすれば、われわれは今一度、モダンを生きねばならないのかもしれない。ドゥルーズは、カントを敵である、と言い放った。近代の「人間」をとらえて離さない《歴史》をもたらしたカント、彼は敵であるとともに、近代という新たな時代を転換せしめた大いなる手本でもある。彼の試みが積極的に旧時代的な大文字の《秩序》を回復するそれであったように、われわれは、今一度、《歴史》の視点に立って、「人間」を見つめなおすべきときが来ているように思うのだ。わたしのこのささやかな試みは、そのような地平にある。いまだ黎明にあるとはいえ、しかし幼年時代にとどまってモラトリアムを謳歌しようなどとは少しも思わない。われわれは問いつづけることを、語りつづけることをやめてはならない。われわれの生はそのようにしてしか保ちえないものであるし、いや、むしろそのように問いつづけ、語りつづけるということこそが、古来、生の意味することではなかったか。

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