アンチ・カンティアニズム

philosophy
2006.07.22

今日、その名が名指しされるか否かは無関係に、ある勢力が瀰漫している。それは、新しいカント主義者たちの勢力である。

かつては新たな経験論の到来としてあれほどにさかんに謳われもした、ジャック・デリダの《脱構築》は、いつしかアーレントに代表されるヒューマニストを通過してイマニュエル・カントに引き寄せられた。デリダの《脱構築》は、構築でもなければ破壊でもない、「ゆらぎ」や「ためらい」などといったはっきりしない符牒に縛り付けられ、あるいはけっして到達することのない理想社会への終わらぬ道程を指し示す語へと囲い込まれ、その力を永久に封印されてしまった。

また、ソ連が崩壊し、歴史の科学性を保証する唯物論の後ろ盾を失った歴史学者が、実際に起こった出来事よりも、その出来事に対する認識のあり方に重きを置き始めたとき、彼らはその名を語らなかったとしても、それはかつてカントに生じたコペルニクス的転回以外の何ものでもない。

歴史学者が歴史認識に重点を置きはじめるや、ひとびとは、個々の認識のもつ差異に愕然とするに違いない。かつては物あるいは事実に結び付けられ、そして科学によってその単一性を保証されていた認識は、バラバラの断片になり、事実はその存在を信じるにはあまりに曖昧なものへと変貌する。こうした断片を再び寄せ集めて少なくとも真理に《もっとも近い》形にするために、かつて完全に批判されてきたはずの対話主義や統整的理念――むろん、それらは《脱構築》という微温的な名称にすり替えられている――といったものが要請されるのだ。

たしかに、新自由主義者と名のる一群の帝国主義者、そしてそれを補強する脳解剖学者や武道論者といった身体論者たちの群れが跋扈しているのも事実だが、彼らはおそらく一時の現象にすぎない。こうした議論はかの『精神現象学』において解剖学批判を敢行したヘーゲルを再生するだろう。ただし、彼の議論がもっている不穏な響き――おそらくそれは、ネオ・ヘーゲリアニズムが隆盛をみた第二次世界大戦の時代にこだました戦車の号砲にほかならない――をかき消すために、必然的に、理念の構成的使用を禁じたカントが要請されるに違いない。カントの『批判』は、かくして、その冒頭の言明にもかかわらず、ヘーゲルに代わって新自由主義者や身体論者を克服するための、《ヒューム批判の書》として潜在的にも顕在的にも祭り上げられるのだ。

だが、理念の統整的使用を問題にする時、にもかかわらず構成的使用は不可避である。あれほど理念の構成的使用に注意を喚起する柄谷行人でさえ、このように言うのだ。

「今後の見通しとしては、戦前、つまり、一九三〇年代の反復ではなく、一八八〇年代の反復になるだろうと思います。(略)しかし、希望はありますよ。なぜなら、第一次世界大戦後、一九二〇年に国際連盟ができているからです。」(「座談会『世界共和国へ』をめぐって」における柄谷行人の発言より(季刊『at』4号、太田出版、二〇〇六年))

彼の議論に欠けているのは徹底した歴史主義批判だが、彼は、あらゆる歴史が、つねに‐すでに理念としてしか現われないということをすっかり忘れている。この柄谷の発言にあるのは、「自然の狡知」などではなく、「理性(歴史)の狡知」にすぎない。すなわち、彼は現在を一八八〇年代の歴史=理念に折り重ねながら、世界大戦と国際連盟の歴史の反復として未来を《構成》しているのである。

こうした発言に対していまでも不朽の意味をもつのは、おそらく、ニーチェの次のような発言だろう。彼は『曙光』において、次のように言っている。

事実! そうだ虚構の事実! ――歴史家は、実際に起こったことではなく、虚構の出来事のみを取り扱う。なぜなら、後者だけが影響力を持ったのであるから。同様に、虚構の英雄だけを取り扱う。歴史家の主題、いわゆる世界史は、虚構の行為とその虚構の動機についての見解であるが、それらの虚構のものはまたさらに見解と行為のきっかけとなる。だが、ほんとうの現実のほうはただちに蒸発してしまい、たんに蒸気として影響するだけである。底知れぬ現実の深い霧の上の幻の絶えまなき産出と懐胎である。あらゆる歴史家は、けっして想像の中にしか存在しなかった事実について物語るのである。(ニーチェ『曙光』三〇七)

理念の統整的使用について論じたカントを持ち上げるとき、じつは、そこにあるのは、一種の袋小路以外のなにものでもない。《物自体》は人間の営みのネガとしてしか現われず、また、自由(道徳)は、それを実践することができなかった人間の罪責感を通じてしか見出されない。そこにあるのは、けっしてたどりつけぬ《物自体》への、あらかじめ息の根を止められた死出の旅路を肯定し、あるいは、真実の単一性と複数性(一と多)のあいだで逡巡する《人間》を肯定するだけの、楽観的虚無主義だけである。

カントは人間の理性にとどめを刺し、消滅する瀬戸際まで追い込みながら、理性の骸(むくろ)が揮発してしまう寸前で宙吊りにし、それに超越論的自我という名を与えた。かくして理性は消え去る瀬戸際でたえず復活する亡霊となって、人間の歩みに付きまとうことになった。晩年のデリダが苛まれていたのは、実際のところ、カントの亡霊(の亡霊)なのである。もちろん、それは柄谷行人やスラヴォイ・ジジェクにも付きまとう亡霊である。

国家を規制するような超自我は、戦争をとおして、さらに、敗戦を通してもたらされると、僕は考えました。日本やドイツの戦争放棄は、そういうものだ。それは勝利したアメリカによって強制されたという人たちがいるけど、そんなものではない。それはやはり内側からきたと思う。(略)アメリカは他の強国には勝つとしても、ベトナムのような相手には勝てなかった。今度は、おそらく、イラクでも負けるだろう。そうすると、また、アメリカ国家は超自我を回復するかもしれない。そうなると、現在の国連とは質的に異なるような国連を形成することが可能になります。(略)つぎに世界戦争が起こったとしたら、それに勝利して悠然としていられるような国はありえない。結局、カントがいったことを実行することになるでしょう。(柄谷行人、同前)

世界戦争を止められないような思想は思想ではない。世界戦争の後で事後的に回復される超(越論的)自我の回路に未来を託す前に――むろん、そうして構成された未来はたかだか歴史の狡知というべきであり、また理念の構成的使用というのだ――なにができるのかを問わなければ、その同じ超自我が、「現在の国連とは質的に異なるような国連」を形成すると同時に、国家を保証する論拠にもなってしまうことを見逃してしまうだろう。敗戦によって超自我を回復するのは、国家だけではない。国民(ネーション)もその同じ回路を通じて超自我としての国家を見出さざるをえないのだから。戦前の左翼が敗戦に及んで国家を見出してしまったように。おそらく、ほとんどのケースで、敗戦を通じて民衆が見出す超自我は、国家であって、世界共和国ではないだろう(1)

わたしたちの知っている歴史は、そのすべてが、すでに理念である。歴史を紐解いた歴史家が何と言おうと、すでに歴史家の理念以外の何ものでもない。ローマ帝政期のストア主義者は、もちろん、それが理念にすぎないことを承知のうえでだが、共和政期のローマを理想の政治体制として称賛した。歴史上、もっともはやく世界共和国を構想した存在である彼らは、歴史が、過去についての現在であることを知っていた。つまり、彼らが理想としてかかげる共和政ローマは、過去そのものに生じた出来事ではないことを知っていたのである。もとより、彼らが参照したティトゥス・リヴィウス自身が、古いストア主義者の一人であり、また、自身の記した歴史書――アウグストゥスによって著述を促されたカエサル批判の書――が、実際の出来事の記述というよりは、彼の理念の産物であることを明言して憚らなかったのである。

こうした自覚(理性批判)は、しかし、他方で《経験》に道を開くのでなければならない。自分の過去や将来にばかり目を向けてきた、近代的人間に付きまとう理性reasonの亡霊を振り払い、根拠reasonなしの行動、《いまここJetztzeit》における行動に対する圧倒的な賛歌とならねばならない。これこそが、理性の側から見ればむしろ理性そのものを揮発させてしまう、《実践理性》なのである(むろん、その同じ理性は事後的に揮発した理性の骸を超越論的自我として復活させるだろうが、それに無闇にこだわる必要はまったくない)。

なんという暑さだろう! 汗が止まらない! だから彼はエアコンの電源を切った。――カントの言うような、《とにかくいまここでこれをせよ》という、きわめて良質の啓蒙的な定言命法に従う時、理性はせいぜいある経験に連続する別の経験でしかない。もちろん、その同じ理性――というか人間の脳の記憶=忘却システム、あるいはエクリチュールとパロールの存立する時空間の差異に起因するところのシステム――は、これら二つの経験の間に《流れ》のようなものを見出し、その《流れ》の指し示す方向を自身の将来の行動の指針とするだろう。とはいえ、それは理性的――仮言的な――であるという点で、ただちに批判されねばならない。再度、定言的な実践法則に従うように仕向けなければならない。要するに、カントの言う理念の統整的使用とは、人が行動を起すたびにたえず生じる理念(指針)を打ち消す――というか、理念それ自体をたんなる経験のひとつとみなすような使用法でなければならない。なぜなら、《いまここ》は絶えず過去と切り離されており、したがって別の過去と無関係に(離接的に)新しいからである。したがって、たとえばシュミットの言うような友/敵区別という価値判断をともなうような決断主義とは似て非なるものである。むしろ、カントの定言的命法は、彼が自身でそう言っているように、ヒューム流の経験論に淵源するとみるほうが妥当であり(2)、また健全である(もちろん、バークのような亜流の経験論は非難されねばならなかったにせよ)。本来、カントの統整的理念は、その点でより正確にいえば、カントを批判したニーチェが、ツァラトゥストゥラを通じて語った《永劫回帰》によって、徹底されるのである。

わたしたちには、「神の国」を夢想したアウグスティヌスに飛びつく前に、できることがある。それは、神の世界に等しい《自然》に対して、自己がどのようにありうるのか、という《善》をストイックに追求することである。ストア的にいえば、「神の国」など、方便に過ぎない。たしかに、アフリカの片田舎からローマにやってきたアウグスティヌスは、老いてゆく《世界》を嘆いて「神の国」を見出したが、もちろん、括弧付でない真の世界は別段、老いているわけではなかったし、コンスタンティノープルやクテシフォンは依然として華やかだった。《自然》は、連続した経験にたえず反復や歴史を見出してしまう人間の理性を笑う、ときに暴力的な狡知として働く。《自然》は語るのだ、「つねに現在は新しい!」と。救いを求め、けっしてたどりつけぬ「神の国」へと死出の飛翔を繰り返す鳥たちの高らかで悲しい歌声を聞くのも、もういい加減に飽きてきた。わたしたちは、すべてを忘れていまここでできることをせねばならない。

【註】

  • (1) 上述の座談会ではミシェル・フーコーのマイクロ・ポリティクスが批判の俎上にのぼっている。フーコーが批判する、一八世紀以来の社会契約説的な議論では、たとえばフーコー自身が指摘しているように、たしかに、権力者が権力を「商品のように所有」し、それを「移転したり譲渡したりすることができる」と考えられる。したがって、一見すると、柄谷の言う、「諸国家を「上から」抑制する」(『世界共和国へ』、201ページ)、すなわち軍隊指揮権の国連への譲渡は、こうした契約説にもとづく旧来の権力論の延長上で出てくるものにも思われる。とはいえ、柄谷の議論は、やはり本来的には、フーコーが契約説的な権力論に代えて提示したマイクロ・ポリティックな「権力関係」に重きを置く議論を通過してでてきたものと考えねばならない。なぜなら、柄谷においても重要なことは、「上から」あるいは「下から」という主体の位置の問題ではなく、それらによって、国家を挟撃するような状況を作り出すことだからである。実際、「権力関係」の微妙なバランスの中で、こうした軍隊指揮権の譲渡のような行為は、現実に起こりうると考えられる。だが、他方で、この同じ「権力関係」から考察する限り、「上から」国連へ軍隊指揮権の譲渡を行なおうとした際に、「下から」反対に遭うという事態がいくらでも起こりうるだろう。とくに、国連の関心が行き届かない小国やイスラム圏においてはなおさらこうした「下から」の反対が生じるものと思われる。この柄谷の挟撃論の困難は、「権力関係」の網の目の中で、それが可能になることもあれば、不可能もまた生じうるということである。フーコーが直視していたこの困難は、依然として克服されていないように思われる。
  • (2) かつて浅田彰が『批評空間』II-19(一九九八年)で正確に指摘していたように、「視差」に着目した柄谷行人のカント読解は、ルソー的ではなくヒューム的だったはずである。

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