炎――戦争を批判する炎について

philosophy
2006.08.07

今日、わたしたちが直面しているのは、人類は《炎》を捨て去ることができるのか、という問いであるように思われる。たとえば不運なハイデガーの語った《炎》は、ユダヤ人を焼き尽くそうとしてナチスの放った炎と、結果的にはほとんど同義であるし、さらに今日においても、アメリカやイスラエルにいる一部の人たちがイスラム圏のひとびと、とくにイラクやレバノンの民衆に対して行なっている数々の非道――これを悪と呼ばないのであれば、もはや悪はその対象をもっていない!――もまた、《炎》によって、そして《炎》をめぐって行なわれている。ユーラシア大陸の西の端で生まれた小さな《炎》は、石炭を燃やし、石油を燃やし、いまでは地球規模の気候変動をもたらすにまで到っている。《炎》の周囲に生まれ、それを幾重にも取り巻いている数々の技術革新が、むしろ《炎》を捨て去る可能性にまで到達しているにもかかわらず、ひとは、《炎》を捨てるのをやめない。誰もが、狂おしい目つきでアラブの石油ほしさに垂涎している。ひとは移動のたびに火焔を噴出す乗り物を選ぶだろうし、なにをするにしても、炎と関わらぬものには冷淡である。

だが、《炎》を捨て去ろうという動きも、世界各地で生じている。なによりそうした動きは、世界でもっとも早く老いを迎えたヨーロッパにおいて、もっとも活発である。だが、あと一歩のところで、そうした試みはいつも遮断されるだろう。ひとびとは、おそらく今後も、《炎》に、未来を託すことをやめないからである。いや、むしろ、《炎》とは、時間の謂いなのである。人類がはじめて《炎》を自らの手の内にいれたとき、同時に彼らが手にしていたのは、過去と未来の観念なのである。《炎》の絶え間ない舞踏をじっと見つめていれば、わたしたちは、そこに未来が含まれていることを確信できる。獲物を炙る炎は、固くなった肉汁を溶かし、腐食を早め、食事の悦びを倍増させるだろう。たとえば縄文時代の火炎式土器がそうであるように、冬の寒さを癒す炎は、その真下に(subsister)、実りの秋の記憶の種子を詰め込む器=場所を生むだろう。人類が親しいひとの死を嘆いて火葬にするとき、灰となった親しいひとは、人類を未来へと促すだろう。ガストン・バシュラールが正しく指摘したように、木切れを激しく摩擦する行為が頂点に達する時、不意に炎が生じる様子に、ひとびとは、子を作る行為と同じエクスタシーを見出すに違いない。子はひとを親にし、孫はひとを老人にする。《炎》は、それに焼かれた森が自然に木々の生育を促すように、時間の進行を早めるひとつのタイムマシンなのだ。

《炎》こそ、この地獄の業火こそが、ひとを人間にしたのである。敵を焼き滅ぼすため、鏃の先で燃え盛る《炎》は、ついには時空を越え、核爆弾にまで到った。人類の科学技術は、人類自身を焼き尽くす可能性を有するにまで到ったのだ。にもかかわらず、地獄行きを早めるこの酷薄な《炎》をひとびとが捨て去ることができないのは、この《炎》を捨て去った瞬間に、《人間》が消滅することが、確実だからである。だから、ひとびとは、使うことも許されず、かといって捨てることもできない《炎》を抱えて、右顧左眄をつづけるのだろう。世界の終わりのときに訪れる《大火》を待つことだけが、わたしたちに残された唯一可能な選択肢なのだろう。カント主義者が期せずして言っているように、後悔だけが、暗闇で妖しい光を放つ後悔の炎だけが、わたしたちに許された理性のはたらきなのだ。ああ、あのとき《炎》を捨て去っていれば、自由だったのに!

ストア派は、アレクサンドロスの死から三〇年ほどのちに、キプロス島にいたゼノン、小アジア北西部のアッソス出身のクレアンテス、そして同じく小アジアはキリキアのクリュシッポスらによって、次第に構築されたものである。ストア派のひとびとから、ある種のゾロアスター教的なものを見出すのはそれほど困難ではない。最後の審判を確信する、古いゾロアスター教徒が炎に捧げる祈りは、ストア派のひとびとがヘラクレイトスに捧げた称賛と、ぴったり重なり合うように思う。

ストア派に対する、ヘーゲルやニーチェの批判はよく知られている。たとえば、ニーチェによれば、ストア派は「奴隷根性の道徳的変容」である。また、ヘーゲルによれば、この思想が、主人と奴隷とを和解させるとしても、それはやはり、思想においてのみの和解であって、この思想は、思想と現実とを取り違えている。とはいえ、わたしは、自分にかわる代弁者としてザラスシュトラを選んだニーチェが、きわめてストア的な思想家であったと断定する。ヘラクレイトスの思想に対するニーチェの称賛は、ストア派のひとびとのそれと同じだからである。彼らは、同様に、ソクラテスよりもずっと古いイオニアの自然主義者たちを愛したのだ。

カントよりもはるかに前へ進んだ哲学者であるストア派のひとびとは、自己変革のための技術のみを、技術として認定した。彼らにとって、精神とは緩慢な炎である。彼らの哲学は、この緩慢な炎をいかに扱うか、ということにのみ向けられた技術である。こうしたストア的つつましさは、数々の誤解を生み、それは今日に至るまで続いている。だが、彼らがその呼吸のうちに語っていたのは、何度も繰り返すが《炎》についてである。つまり、《炎》が、自己にのみ許された技術だということである。他者に対してこの《炎》が用いられることがあってはならない。だから、彼らはいくらでも言うだろうし、また言えるのだ。他者に向けられた《炎》は、明白に悪であると。

おそらく、今後も《炎》を捨て去るのは容易ならざることでありつづけるだろう。だが、少なくとも、それを「自己」にのみ、向けるための技術として磨き上げねばならない、ということだけは、はっきりしている。《炎》は、「自己」を発火させると同時に、「自己」をも焼き尽くす《炎》でなければならない。そうした《炎》には、わたしはいくらでも存在理由を与えるだろうし、それこそが、自然がひとびとに与えてくれた等分の分け前なのである。本来、《炎》は他者に対して用いることは不可能なのだ。わたしたちの作り出した《炎》は、自分しか燃やさないのである。だからむしろ、わたしは、捨て去る必要はない、とさえ言うだろう。ヘラクレイトスは言っている。「火を消すよりも、傲慢な心を先ず静めるべきだ」と。最初にあげた問いは、間違いなのだ。だから、ニーチェのような新しいストア主義者にならって、いくらでもこう言える。今日の戦争はおかしい、と。今日、世界各地で続いている戦争が、敵を焼き滅ぼそうとするかぎりにおいて、すべて誤りであると、いくらでも批判するだろう。

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